ヒルシュスプルング病手記
1997年夏、はじめての子供が生まれる。
生まれる前から心拍が早く、生まれた直後も心拍が早い。熱も38度あるらしい。私も同じだけの熱があった。
そのため産後すぐに入院扱いとなり、母子は離れることになる。
生んでからはじめて母乳を与えることができたのは3日目だったかな。
新生児室へ通いミルクを与えるがすぐ吐く。吐くので鼻からカテーテル(くだ)を入れた。
生まれて5日目。やっと母子同室の許可が出る。飲ませては吐くので、ナースコールをし、先生に見てもらうが
「吐きやすい子供でしょう」とのこと。この時、便も尿も排泄はちゃんと出ている。
先天性の病気というのは生まれて1週間(産後の入院中)にわかるものだそうです。
特に大腸が動かない病気なら便も出ないはず。出ないからおかしいということになるはずが、なぜか
引力なのか、便が出たわけで、それ以外以上もないので無事1週間で自宅へ帰る。
<<産後の半年間>>
1度に飲むミルクの量:50〜80ccと少なく、やはり吐きやすかった。
でも1ヶ月検診でも問題なし。
はじめての育児なので何が問題で問題じゃないのかまったくわからないため
「こういうものなのだ」と過ごす。
だから遊びに行くときも吐き用の着替えセットを持って吐くのを前提に生活。
便も快調。どちらかというと便秘気味。
98年1月、お正月を機会に離乳食を開始する。
忘れもしません98年1月19日。
友達と一緒にはじめての三種混合予防接種を受けに小児科医院へ行く。
その前に、3ヶ月検診で「体重が増えていない」といわれ病院で見てもらうようにいわれていたので
ついでにその紹介状も渡す。
注射をして家に帰り数時間後、猛烈に熱が上がる。慌てて医院に電話をし、医院に戻る。
血液検査をし、結果すごい炎症反応が出てるので即入院です。といわれ、大きな病院を紹介される。
ここから私と子供の入院生活がスタートする。
まさかこれが2年半にも及ぶと誰が予測しただろうか・・・

市内の大きな病院へそのまま走る。私自身入院の経験がない(出産以外)ので何が何やら。
とにかく子供は当時5ヶ月、熱なのか痛みなのか一晩中泣きつづけて、私はベッドの上で一晩中体育座り
をしたままあやす。あやしたままその姿勢のまま寝る。が泣くのであやす。の繰り返し。
そのときの部屋4〜5歳の子の多い部屋だったので、ナースさんにお願いしてもう少し年の近い子供の部屋に
してもらう。(みんな泣き声で寝れなかったみたいで気になったので)
何よりも私自身の神経が参った。本当は個室に行きたかった・・・
いろいろあって熱も下がり、便もなんとか出して炎症も下がって、じゃあ帰りましょうか?という話が出た
翌日、また熱が急激に上がる。婦長さんが来て、「ナースの詰め所に近いほうが便利いいし個室だから」
と部屋を変えてくれる。がしかし、これは緊急の子供の入る部屋なのだ。(長くいてわかった)
大部屋で風邪をもらわないように。あと子供本人が緊急事態のときほどナースセンターに近い部屋になる。
2月下旬、7ヶ月に入るという日の前日。夕方。
大勢の医師陣が来た。「この子供はもう危険だから、手術しないと助からない」と突然言われ、あれよあれよと
準備が進み、印鑑を押し、オペ室へ連れて行かれる。
実は個室に入ってから、全く熱も下がらなければ便も出ない。おなかはどんどん膨れる。
そういう状態が続いていた。マッサージをしてもガスも出なければ便も出ない。
夜中。手術は終わった。
盲腸が破裂して腹膜炎を起こしていた。おなかは膿だらけだったと。
身長数十センチの子供に点滴が3〜4台おなかから管が3本出て、まるでメカ人間のようだった。
こんな乳児が盲腸だなんて聞いたことない。
ナースさんがみんな言ってた。先生もこれは何か原因があってこうなったに違いないと言った。
その年3月に定年退職する副院長(外科部長)先生がオペに立ち会って、
その先生も「僕もこんなのはじめてだ」と言った。
その1週間後、まだおなかが張ってくる。ので念のためと言って2回目のオペ室。
問題ありませんでしたと報告あり。
そんなで、盲腸だったのかあ〜じゃあ治ったら帰れるね。と家族と話す。
が、まだまだ続くのであった。
<<98年初夏から99年冬まで>>
便が出ない。浣腸が日課になった。
どうやっても出ない。子供は禁食生活が続いた。食べると便ができてしまうからだ。
たまに様子を見て解禁になるのがまずポカリスウェット。次に、エンシュアリキッドという医療用飲み物。
流動食だ。これはとてもまずくて飲めなくて、わざわざ鼻から胃に管を通して注入する子もいるそうだが
我が子はごくごく飲んだ(笑)一気に飲んだ。
そしてまたおなかが詰まると禁食になり鼻からカテーテルを通して胃腸のものを鼻から出すという作戦を
とる。これがずーっと続く。
たまに調子がいいと退院になる。が1週間〜3日でまた戻ってくる。
この時点でいろんな検査をしたけど原因がはっきりわからない。たぶん手術で腸が癒着して動きが悪く
なっているのだろう。だったら時間をかけてゆっくりほぐれるのを待ちましょう。
と言う話だった。
<<99年3月>>
なんと転勤!!しかもすご〜〜〜〜く遠い。海を渡る。日本だけど、全く行ったこともない知らない街。
どうしよう。子供がこんななのに。単身赴任か?ついていくのか?
結局子供も移動することに決定。調度体調よく、退院もしていたので今のうちに引越し!
と思ったら引越し荷物を搬出してるさなか、再入院(母が連れて行ってくれた)。
主人はすでに現地、私は引越し屋さんと搬出、子供は入院。すごい状態だったなあ。
結局1週間で退院。飛行機のチケットも変更し、退院したその足で転出届をして翌日は見知らぬ土地へいざ!
(母がついてきてくれたけどね)
見知らぬ土地でいきなり私の27歳の誕生日だった。
荷物の山の中で久々にケーキを食べた。
だって26歳の誕生日は病院で管だらけのメカ人間を目の前に心配してたから・・・
あとすぐに転入届をし、乳幼児医療の手続きをし、病院へも挨拶に。
元の担当医が行き先の病院の小児科部長先生にメールで説明してくれていたのだ。
行ったとたん「小児外科に行ったほうがいいな」といわれ、はじめて「小児外科」というものを知る。
お子様用外科?いえいえ、これがこれが、我が子に必要だったのはこの分野だったのですよ。
99年4月1日。入院しました。夜中に吐いて明け方救急外来で。
寝不足のところに担当の先生がやってきた。その日移動で転勤してきた新しい先生で、
両方「今日がはじめてなんです」状態で、どこが病棟なのかまったくわからない。
とにかく、子供は禁食になり、検査が始まった。
小児外科医のいうには「きっとヒルシュスプルング病だと思うんだ。それにしても例外中の例外で、いままで
よく生きてこれたね。よかったよかった。」とのこと。
もってきた紹介状のなかの病歴を見て何度も腸炎を起こしてて命を落とさなかったことがすごいと。
このヒルシュの名前は前の病院でも聞いた。検査してみたけど違うみたいだって。
それでそのことに関しては一件落着していた。
これは医療ミスとかじゃない。検査の過程や事例や知識や、いろんなものがあって「小児外科医」は
やっぱりヒルシュを疑ったのだ。
私は検査にも立ち会った。
準備が整い5月のGW前には手術をしようということになった。
3度目の手術。これはまず「人口肛門にしましょう」というものだった。人口肛門にすると普通の食事も
できるし、まず体を発達させないとこの子は小さいし未発達だと。
そうなんです。この子は母乳どころかミルクも飲んでいない。
医療用「エレンタールP」とか「エンシュアリキッド」とかいうのを飲んで生きていた人。それも飲めるときは
元気なときで、人生半分は禁食状態です。
え〜で、知らない方に説明しますと、人口肛門というのはズバリ!腸がお腹から
飛び出してるんだよ。生で。不思議。それでも人間って生きていられるんだ。
99年4月26日。この手術をしました。
GW明け、想像よりも早く「食事」というものが始まりました。1歳9ヶ月。まずはおもゆから。
そして普通食へ。2歳近くなってからの初食事というのは、「食べる」という行為を知らないため
たとえケーキでも全く興味なし。果物でもおやつでもウィンナーでも駄目。
ナースさんたちがみんなで机を並べて「みんなでお昼を食べよう」の会をやってくれて、それで
他人のお弁当が気になるという行為がはじめて出る。
人口肛門の方はというと、まあ最初はいろいろありつつも快調快調。飛び出した腸にパウチを貼って
日常生活を送るのです。
これがパウチ。お腹にぺたっと貼る。(懐かしいねえ〜)
こんな風にね。輪ゴムで縛る。(結構原始的)
そうしてめでたく、今度こそ、本当に「一時的」に退院。99年夏の終わりのこと。
<<99年9月〜2000年6月>>
自宅生活。はじめての長期家生活。集団生活からいきなり母子だけの世界になると気もめいるだろう
と医師のススメで集に1回、無料で市でやっている子供教室のようなところへ通う。
食事も小食ながら地味に食べ、地味に体重も増える。
退院の際、医師から「100g単位で表示される体重計を買って、毎日計るように」と指示が出る。
9月1度1週間ほど脱水で再入院。
2000年2月約2週間。脱水状態になり入院。
他は元気に活動!旅行もしたし、本当にごく普通に生活。
2000年6月最終段階。
約8ヶ月、普通の生活で体重と体力を増やし、とうとう最終段階、大腸を取り除き小腸と肛門を
つなぐ手術をしました。
このヒルシュスプルング病は先天性の病気で大体が大腸の先端だけ神経がないとか、その
パターンだそうです。ところが我が子のパターンは大腸全部がまったく神経がないというのです。
だから、大腸全部取るのです。
私は「大腸って、なくても生きていけるのですか?」と聞きました。
答えは小腸は栄養を吸収する場所、大腸は水分を吸収する場所だそうです。大腸がなくて
困るのは水分不足=脱水状態になりやすいこと。それ以外、栄養はちゃんと吸収されるので
手術がすめば、本当に普通に生活できますよ。というものでした。
手術は5〜6時間に及ぶ大きな手術でした。
朝から始まって帰ってきたのは夕方でした。
手術は当初、一度で終わらせる予定でしたが、まず大腸を取り、肛門と小腸をつなぐ。
念のため便の出口として小腸の一部を人口肛門として新たに外に出す。
そして頃合を見て、人口肛門を閉じ、お腹を閉じ、すべて根治。というスケジュールで行われました。
2度目。(全部で言うと5度目)の手術はお腹を閉じるだけの簡単な手術でした。
2〜3時間で帰ってくるよといってオペ室に入って行きました。
経過した時間5〜6時間。この間と同じだ。
ナースさんが「お母さん、あのね、ICUに行くかも知れないからタオルとか身の回りのものまとめて
おいてね」と言いに来ました。少し涙目だった気がする。
ICUって・・・おばあちゃんが死んだとき以来だ。
ICUって心臓手術の子とかが術後行くところだ。
なんでICUなんだろう・・・
私はこの数年間泣いたのは2度だけです。はじめてのオペを言い渡されたとき。
そしてこの日。ICU。

まずICU(集中治療室)ではガウンを着て、消毒をし、先生を待ちました。
先生は取り出した腸を持っていました。
小さい体で幾度と手術をし、お腹の肉が足りなくて閉じれなくなったとのこと。
なんとかぎゅうぎゅう閉じたが、このまま一般病棟には帰せないので、意識をなくしておとなしく
寝かせ、傷をふさぐとのこと。その間人工呼吸着をつけ、ICUでだいたい1週間お世話になる
ということを聞きました。
子供はICUの一番奥のガラス張りの部屋にいました。
もちろん意識はありません。
口に管がついてて機械で呼吸させています。
・・・・・・なんとも言えない光景。
そして1週間。なんとかICUを卒業。一般病棟に戻ってきました。
ICUから戻った翌週、3歳の誕生日を向かえました。食事制限があったので、ゼリーならなんとか許そう
と先生が言ったので私はボウルとゼリーのもとを買ってきて、超特大級ゼリーを作り、2000年メモリアル
ガラス皿も買い、ろうそくも買って、病室で誕生会をしました。
8月。術後歩けないと言い出しました。足が痛いと。
遊び場に連れて行ってもハイハイしかしない。
あせらないように、でも歩く練習をはじめました。夏の暑い中飲み物を持って外出届を出して隣の大きな公園
であそばせました。
子供は病院しか知らないのです。虫も1ミリくらいの羽虫でキャーキャーいい、滑り台にてんとう虫がいるからといっては逃げるのです。自然を知らなすぎる。
歩くことの練習と共に、夏の暑さを教えました。季節や草や虫を教えました。
木陰でありの観察もしました。
徐々に自然界を受け入れるようになり、歩きも復活してきました。
<<2000年8月最終週>>
とうとう、すべてを終えて退院の日が来ました。私はその間25歳から28歳になっていました。
私も外界から遮断され、9時消灯以降のTVを知らず、毎日院内のコンビニ弁当やパンをかじって生きて
いました。
それが終わったのです。
うれしかった・・・・子供のことも、自分のことも。
子供はパウチのないおへその見えるおなかをながめ、トイレで便をすることができるようになっていました。
ナースさんからは「トイレは0歳の赤ちゃんだと思って、まだまだ無理だから」と言われていたのに、そういって
る目の前でトイレで便をしたのです。ちゃんと便意を感じてトイレでできたのです。
トイレトレーニングなんかしてないのに。これには驚きました。
そして、私たちは長期の戦いを終え、家路についたのです。