世界にまだ多くの神々が残っていた頃、この蒼い星に2つの存在が居た。
1つは“美”。その赤い唇を皆は求めた。象牙のような肌に触れたがった。金の巻き毛を欲した。そしてその春の女神を司る笑顔故、皆は彼女を愛して止まなかった。
1つは“妖艶”。その妖しげな唇に皆は酔った。琥珀色の肌に戦慄を覚えた。漆黒の髪は全てを抱き込む闇を思わせた。そしてその夜の女神を司る姿故、皆は彼女を畏怖して止まなかった。
“美”と“妖艶”が並ぶと、その存在だけで人々は動きを止めた。実際、この2人はよく行動を共にしていた。対立する存在であるために、お互いを認め合っていたのだ。2人は決して争うことなく、互いの行動を見つめていた。求める者も、求められる対象も違っていた。
“美”は“妖艶”のことを、その無邪気な心で崇拝していた。孤独でありながら、何1つ不自由なく、弱気なことを一切口に出さない彼女に憧れてさえ居た。“妖艶”のすることなす事、全てはとても計算されていて、自分には到底真似できないとため息をつくのだった。
“妖艶”は“美”のことを、その理性に反するほど溺愛していた。無邪気で、皆から好かれるその存在を、たまに妬ましく思うことさえあった。“美”のすることなす事、全ては本能の赴くままであるというのに、彼女は皆に愛されていた。その存在を独り占めにしたいとさえ、“妖艶”は思っていた。彼女のようになれないのならせめて側に・・・・そう、考えていたのである。
思惑は違うものの、やはり2人は共にいた。そんな2人にあり得ない事実が起きた。2人が同じ少年を気に入ってしまったのである。
2人は悩んだ。尊敬すべき“妖艶”に譲ろうかと思い悩む“美”。溺愛する“美”の願いを叶えてやりたいと思う“妖艶”。しかし“妖艶”は、それと同時に少年に対して激しい嫉妬をも感じだしていた。いままで自分だけを尊敬していた“美”の愛が他の者に映っていくという、その事実に耐えられなかったのだ。“妖艶”は“美”を独り占めし続けるが為、少年をあの手この手で誘惑した。それに比べ、“妖艶”の思いを知らず、また、駆け引きなどと言うことを考えない“美”は普通通りに少年に接していた。少年は少しずつながらも“妖艶”の方に惹かれてゆくかのように思われた・・・・。
しかし、軍配は“美”の方に上がった。少年はやはり“美”の無邪気な愛らしさを良
しとしたのだった。この結果は“妖艶”を狂わせた。大切なものを一気に2つ手元から失ったのである。彼女の心からその髪と同じ漆黒の感情が流れ出し、ついには彼女を染め尽くしてしまった。
“妖艶”はその晩、夜闇に紛れて“美”の元を訪れた。何も知らない“美”は驚きながらも丁重にもてなそうとしたが、“妖艶”は冷たくはねつけた。そして言ったのだ。
「お前はもう私を愛していないのか。もし愛しているのなら少年を私に渡せ」と。
“美”はそのこぼれ落ちそうな瞳を大きく見開いて、信じがたい事実を賢明に受け入れようとしていた。“美”は2人共を愛していたのだ。選ぶことなど出来なかった。
その思いを素直に“妖艶”に涙ながらに告げるのだが、“妖艶”は聞く耳を持たなかった。
結局、“美”は少年を“妖艶”に譲ることにした。“美”はその涙を賢明に押し隠し、“妖艶”は満たされた笑みを浮かべた。
その途端、2人の耳に短い悲鳴が飛び込んだ。自分の運命を悲観した少年が、自ら命を絶ったのだった。その凄絶な光景を目の当たりにして2人は息を飲んだ。
“美”が倒れそうになるのを“妖艶”が抱き留めた。そのまま“美”を長椅子の上に座らせると、“妖艶”は少年に近寄っていった。彼はもう息をしていなかった。
“妖艶”は“美”を寝かしつけると、何も言えずにそのまま家を辞した。少年を失ったことは大きな悲しみだったが、“美”を失わずに済んだことで彼女の心は少なからず昂揚していた。これで“美”は自分だけの物になった、と確信したのである。
ところが、翌日も翌々日も“美”は“妖艶”の前に顔を出さなかった。家に訪れても入ることは許されず、“妖艶”は肩を落として帰るしかなかった。外で佇んでいても、いつも“美”と使用人の笑い声で溢れていた家は静まり返っていた。人の話によるともう“美”は、随分長い間微笑みさえ浮かべないのだという。
“妖艶”は気が気でなかった。一体どうしたというのか。こういう時こそ2人は寄り添うはずなのに、“美”は今自分の傍らに居なかった。訳の分からぬ不安が、彼女を包み込んでいた。
そんな中、“美”の家から使いの者がやってきた。“美”が“妖艶”を呼んでいるという。“妖艶”は飛ぶように“美”の家に向かった。
部屋に入っていくと・・・・どうだろう。“美”は今にも消え去りそうに窶れていた。あの艶やかだった頬は落ち、赤い唇は紫に近くなっていた。金の巻き毛は乱れたまま流れていた。“妖艶”が愛する者のあまりの変わり様に涙を流すと、“美”はか細い声で泣かないでと言った。そして息も絶え絶えに2人共愛していたことをゆっくりと告げた。“妖艶”は今になって自分の愚かさに気がついた。愛する“美”をここまで貶めたのは自分なのだ。“妖艶”は後悔の念を覚え、“美”の手を握りしめた。許しを乞うつもりだった。
すべて遅かった。握った掌から力は伝わって来ず、その肌は氷のように冷たかった。“妖艶”は生まれて初めて声を出して泣いた。
“美”を綺麗な花畑に埋めた後、“妖艶”は1人になった。もうだれも自分の隣に来ることはない。そう思うとやるせなくて、涙が溢れた。
満月の晩、“妖艶”は暗く蒼い海に向かってその身を投じた。誰1人としてその行方を知る者は居なかった。
蒼い星の2つの存在は消え去った。春と夜を失った人々の涙は雨雲を呼び、その灰色は絶えることなく世界を包んだ。