夏色を忘れない

 芹夏は自由奔放を絵に描いたような奴だった。夏と金色がよく似合う。落ちこぼれで気の弱い俺には絶対的に釣り合わない、周りはよくそう言ったものだ。俺も同意見だった。けれど・・・彼女は今、俺の恋人になっている。

 ある夏の日、俺はキャンパスを何気なく歩いていた。ポケットに入れた手は今日の昼飯の内容を決めており、その感触は俺にため息をつかせていた。
「月末はきついよなぁ・・・・」
 俺は誰に言うともなしに、そんな情けないことをつぶやいていた。彼女もなければ金もない、全く冴えない21歳の夏だった。
 うちの大学は私立のいいとこである。この大学内の人種はきっぱり2つに分かれる。1つは高校から内部進学して来たいいとこのご子息たち。もう1つは、俺のようになんとか引っかかり、高い学費に頭を悩ませている一般庶民だ。
 ふと顔を上げると、目の前をきらびやかな一団が通り過ぎていく。いいとこの奴らである。普段の俺なら、見ていてもむなしくなるだけなのですぐに目をそらすのだが、今回は違った。とびっきりの美人がその集団の中にいたのである。
 すらりとした体に、ぴったりとした服。その姿はまるで鹿のようだった。いい具合に塗られた化粧が、彼女の目立つ顔をいっそう引き立てている。肩くらいまでの髪は、カチューシャでしっかり止められていた。
「好みだ・・・」
 思わずつぶやいてた。馬鹿みたいだ。
 その一団は俺などまるでそこにいないかのように、談笑しながら過ぎ去っていく。それでも俺は、彼女が視界から消えて居なくなるまで、すっと見つめ続けていた。

 それが、俺と芹夏の出会いだった。
 それからというもの俺は友人に彼女のことを聞きまくり、わずかばかりの情報を手に入れた。隣の学科を専攻していること。その科1の美女として、その科の周辺では有名だということ。振った男の数は星くらいであること。そして、週に何時間か俺と同じ授業を取っているということ・・・。

 天使ってのは気まぐれなモンだ。ある日突然、俺はそいつに味方された。
 あの芹夏が学食で俺の隣に座ったのだ。何故か周りには取り巻きが居なかった。俺の心臓はうるさいくらいに打ち始め、居ても立っても居られなくなってしまった。
 彼女はアリストテレスの『詩学』を読みながら、サンドイッチを摘んでいた。
 俺は少し意外な気がした。いいとこの連中というのは遊び回っているというのが、この学校の通常だったからだ。しかも『詩学』である。なるほど、哲学の授業を取っているだけある。しかも俺の愛読した本のうちの1つだ。周りの奴には暗いと言われていたのだが、今やそれは俺にとってラッキーアイテムでしかなかった。
「あ・・あの・・・・」
 俺はしどろもどろになりながらも芹夏に話しかけた。ここで引いていては男が廃る!
 芹夏は機敏な動きで本から目を上げると、俺をまじまじと見つめた。たじろいでしまう。
「なに?」
「あ・・あの・・・『詩学』好きなの?」
「そうだけど・・?」
 彼女はいぶかしげに眉を寄せた。当たり前だろう、初対面のださい男がいきなり本について話し始めたのだから。
 俺は何とか誤解を解こうと、言葉を絞り出した。
「あ・・・俺も好きなんだ、『詩学』」
 その言葉を聞いた途端、芹夏の顔がぱっと明るくなった。体の向きをこっちに向けてくる。
「本当!? 嬉しいっ。暗い、っていわれるのかと思ってた」
 芹夏はもう飛び上がらんばかりの喜びようだ。
 俺もその笑顔を見て、すっと緊張が解けた。すらすらと言葉が続く。
「あ、それ、俺も言われた。ひでーよな」
「そうそう、こんなにいいのに!」
「あ、俺『詩はリズムと言葉と音曲で構成される』って所、特に好き」
「私も?!・・・・」

 俺と芹夏の“詩学談義”は結局その日の夕飯まで続き、俺たちは一気に仲良くなった。 芹夏が実は仲間たちと群れている自分を見下していたことや俺が芹夏の印象を語る頃には、お互いをとても近く感じられていた。それから俺が芹夏のアパートに行くようになるまでに、時間はかからなかった。

 俺たちは幸せな時を過ごしていた。俺が大学を辞めて田舎に帰らなくてはいけなくなるまでは・・・。
 俺は悩んでいた。もう東京には当分戻れないだろう。芹夏に帰省のことは告げてあった。芹夏と離れるのは辛かったが、全ては彼女の想い次第なのだ。けれど俺はそれを聞き出せずにいた。

 ある日芹夏が上機嫌で学校の話をしているとき、俺は居ても立っても居られなくなって、芹夏の方に身を乗り出していた。
「・・なぁ、俺のこと、本当に好きなのか?」
 俺は意を決してそう聞いてみた。声が震えた。後悔の念がどっと襲ってきた。
 芹夏は一瞬きょとんとした顔をしたが、その後すぐ真顔になってこういった。
「愛してるよ、貴方のこと。でももっと好きな人が居るんだ」
「・・・・?」
 俺は困惑した。(二股かけてるって事か? 俺の恋もあっさりここで終わりか?)などど、最悪な予想が頭の中を飛び交う。
 芹夏は大きく息を吸い込むと、それの全部を使うように言葉を吐き出した。
「アタシって人」
 そう言うと、彼女は笑い出した。俺は唖然とした。けれどそのうち、俺もつられて笑い出していた。笑いながら涙が出た。今までの苦悩や不安を一気に流しているみたいだった。俺たちは2人でヒイヒイ言いながらなおも笑い続け、声が途切れてもなお倒れたまんま体を小刻みに揺らしていた。

 その晩俺たちは1つの布団でぐっすり眠った。目が覚めて彼女を見たら、俺は今日よりずっと彼女を好きになっているだろう。そんなロマンチックなことを思いながら俺は眠りに落ちた・・・・。

 次の朝、芹夏が起きる前に俺は彼女のアパートを出た。
 彼女を縛る気には到底なれなかった。所詮・・・夢なんだろう。そう思えば思えてしまう自分がむなしくて、俺は少し俯き加減に駅を目指していた。
「バイバイ・・・・お前の夏色を忘れないよ・・・・」


  目次に戻る  / トップページに戻る