海に住まう者 〜海外伝〜





 時たま、何かがそこに在る。
 それが手なのか、蔦なのか、はたまた蛇の類なのか・・・僕にはまだ解らない。ただ、包まれる。それは、僕の体に巻き付き、時に喉を、足を、腹部を貫き、背中へ抜けていく。そしてまた纏いつく。周りは闇だ。僕は少しだけ地から浮いている。自分は目を閉じているのに、その姿がはっきりと見える。絡み合う黄色い太いものが、自分と同化している。
 或る時は、確かに自分の両手だった。自分の躰を抱きかかえた双腕は、見る見るうちに伸び、僕を包んだ。貫かれていた。けれど、痛みは無い。浸食されているという不快感よりもむしろ、安堵感があった。永遠とも思われる時が流れ、僕は我に返る。ネオンの光る町並みに居る自分を認める。眺めてみると僕の腕は元の長さに戻っていた。
 もちろん・・・・幻想である。そう、現実であるわけはなかった・・・・・。


 彼女の話によると、僕は行き倒れていたらしい。彼女がたまたま通りかかった路地裏に僕は居たそうだ。全身黒づくめで突っ伏しており、その黒には砂が無数についていたという。彼女はそんな僕を見て驚いて、救急車を呼んでくれた。普通だったらその格好の怪しさに近づく気も起きないと思うのだが、彼女はただ助けなければと思ったらしい。いまでも喧嘩をやめた時に、僕らはこの話をする。彼女は苦笑しながらこう言う。何で見捨てなかったんだろうね、と。僕はというと、ただ笑って聞いているだけだ。それくらい奇特な行動だと思っているから。
 病院で目覚めた時、僕はすっかり記憶を失っていた。持ち物は無く、医師たちは戸惑っていた。あれこれとやってくれもしたのだが、結局何も思い出せなかった。そんな僕を彼女が引き取ってくれたのは、まさに幸運と言うべきだろう。彼女は僕をそのまま見捨てずに、看病さえもしてくれたのだ。優しい彼女の横でくつろいでいるこの時間。本来ならば失われた時のはずだった。それを彼女がもたらしてくれたのだと思うと、本当に感謝してもしたりない。

「何、考えてるの?」
 柔らかな声が、僕を思考の世界から引き戻した。視線をあげると、優しい彼女の顔が見える。手には2つのカップの乗ったトレー。冬の寒い時期なのでコーヒーを入れてくれていたのだ。そこまで思い出してやっと僕の頭は快活に動き出した。風景が鮮明に飛び込んでくる。
 住み慣れたダイニング、キッチン。早くに太陽を無くした空は藍色よりもその色を濃くし、頭上で蛍光灯が冷たく輝いている。風もないのにさわさわと揺れる観葉植物。頬杖をつく僕。キッチンで用意をする彼女。時たま交わされる会話。夕食後のいつもの風景だ。当たり前となっていても尚、幸せな時間。僕はその中に居る自分を見つけて、少なからず安堵した。
「いや・・・なんでもないんだ」
 僕は、言葉少なにそう言った。回想について教える気にはならなかった。隠し事は嫌いだが、上手く言えそうにもなかったのだ。
 彼女はそれを聞いて少し眉を寄せたが、すぐに普通の顔に戻った。
「そう。ならいいけど」
 かちゃり、と音を立てて、テーブルの上にカップを置いていく。僕は、彼女の動作をじっと見ていた。白い、細い手。その手の動き。カップの向きを直す癖・・・。
 それに気がついた彼女はくしゃりと顔を歪めて、照れたように笑った。それから挑むような目線で僕を見る。
「なによ? じっと見て・・恥ずかしいじゃない」
「ん〜・・なんかいいなぁ、と思ってさ・・・」
「やぁだ・・・・」
 軽い口調で言ったものの、本心からの言葉だった。彼女と会ったいきさつを思い出す時、僕は必ずこういう感情に駆られる。今がある事への感謝、とでも言うのだろうか。今ある幸せが、必然の出来事でないことを、僕は何故かよく分かっていた。
 コーヒーは熱かった。舐めた舌先に軽い痛みが走る。そんな些細なことさえなんだか嬉しくて、ゆっくりとカップを傾けた。彼女はこの熱さがちょうどいいらしい。平気な顔をしてくっと飲み干すと、食器を下げにキッチンへ戻っていった。これから隣室に行って仕事でもするのだろう。

 彼女は働いている。ちょっとした企業のデザイン科に勤めている。会社でもやっているのだが、家が落ち着くといって課題を抱えて早く帰ってくることも多い。そのせいか、この部屋にもいろいろな色見本や画材がある。夜更けまで作業していることもしばしばだ。コーヒーはそんな彼女のエンジンの様なもので、僕が飲み終わる頃には集中して机を見つめている。そんな時の彼女の横顔はとても真剣で、僕はいつも息を殺して通り過ぎていた。それでもいつも気付かれてしまうのだけど。
 数ヶ月前から、僕もやっと働きだした。僕の今の仕事は、彼女が勧めてくれたようなものだ。記憶を失い、この現代全体に馴染めないような感覚を抱いていた僕に、何か習い事をするように勧めてくれたのがきっかけだった。彼女はすぐに仕事をしろとは言わなかった。その頃の僕はそれを考えるほど回復していなかったし、彼女もそう割り切っていたのだろう。まず社会に馴染むことから始めてくれたのだ。今から思うと情けない。
 僕はその時部屋にいた。彼女が仕事帰りに貰って来てくれたパンフレットを、ぺらぺらとめくっていた。スポーツジムのカタログにはいろいろな教室が載っていた。中でも水泳教室の欄に僕は興味を引かれた。何故かは解らない。ただ、とてもやってみたくなっていた。そして彼女にそう伝えた。彼女は簡単に同意してくれた。やっと動く気になった僕を見て、嬉しかったのだろう。部屋に一日中居るよりはいいことだと、からかいもした。
 手続きから自分でやった。書類を書くときは彼女がわきから心配そうにのぞいていたのだが、平気だからと追いやった。1人でやり通さなければ意味が無いような気がしたのだ。

 早速手元に会員証や日程が配られ、瞬く間に初日を迎えた。初めてだった僕は、少し緊張していた。なれない水着格好で白いプールサイドに立つ。周りには数人の受講者がいた。そのうちに指導員らしき男がやってきて、僕らの点呼を取った。彼の言う通りに準備体操をし、水を浴びる。笛の音で入り、次の笛で顔を沈め、3度目の笛で出るように指示された。
 指導員が最初のホイッスルを鳴らした。僕は怖々と足を水につけ、それから腰、肩と水中に沈めていった。とけ込んでいる塩素の臭いが鼻について、僕は少し顔をしかめた。緊張も増した。
 ところが水に浸かった途端、僕は寸前まであった恐怖を微塵も感じなくなっている事に気付いた。そのかわりに言い様の無い安らぎを感じていた。
(この柔らかさはどこかで・・・・)
 そう思いつつ、僕は水に触れていた。手を動かすと、水が緩やかに指の隙間を通っていく。
 潜る合図が出された。僕は言われたとおり息を思いっきり吸い込んで顔を沈めた。僕はすぐに胎児のように躰を丸め、瞼を閉じた。こうしろ、と教わったわけではない。まるで型を記憶しているかのように、僕の体は丸まった。
 口から数秒に1つだけ気泡が吐かれている。周りの人が微かに水を揺らしていた。大きな気泡が上がって行っては弾けていく振動もあった。僕の心は時間と共に落ち着き、全ては水に含まれていた。水を感じるのではなく、水として感じていた。遠くで笛の音が聞こえたようだったが、それは僕の脳まで届かなかった。どこまでもどこまでも溶けていくような気がした。水になる・・・・。
 そのうちに水が大きく振動した。その揺れは僕の脳を刺激し、僕は五感を取り戻した。手足が僕という固まりから離れ、別々に動くようになって来た。目をゆっくりと開けると、誰かが大きく泡を吐きながら近づいて来る。僕の肩を掴んで揺さぶる。視点が合ってみると、目の前に在るのは指導員の心配した顔だった。僕が気付いたことを確認すると、彼は安堵の表情を浮かべた。そのまま僕を掴んでプールサイドに引き上げる。僕はされるがままになっていた。いや、本当は抵抗したかったのかもしれない。水と別れることが妙に名残惜しかった。
「・・・・さんっ、大丈夫ですか?」
 聴覚の戻りは遅いようだった。なかなか脳まで声が届かない。指導員は焦ったようになって、何度も僕に声を掛けた。
 僕は彼の焦り様をとても不思議に感じた。一体なんだというのだろう。安らかな眠りから急に覚醒させられたように、僕の頭は少しぼんやりしていた。プールサイドのタイルでさえ、あまり冷たいと思えない。思考がはっきりするわけもなかった。
 ろれつの回らない口を何とか動かして答える。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫って・・・だって貴方、10分も潜ってたんですよ!?」
 指導員が驚いたような、あきれかえったような声を上げる。
 僕はその言葉を聞いても未だに自分の状況が解らなかった。大体、10分という時間が潜水に於いて長いのか短いのか、僕は知らない。だから、曖昧な返事をすることにした。
「そう・・・ですか」
 僕のぼんやりとした返答を聞いて、指導員は苛立ったように手を振った。
「そうですよ! ・・・何か経験でもおありで?」
「いえ・・・。水に潜ったのは今日が初めてです」
「そんな・・・」
 指導員は呆然としていた。それでも僕が分からないでいると、僕の後ろにいた男が、海女でも無い限り初心者はそんなに潜れないのだと教えてくれた。僕は彼に向かって軽く会釈した。
 男の方を見つめたついでに改めて周りを見回してみると、僕の周りは結構な人だかりになっていた。心配顔の者もあれば、好奇心に満ちた顔をしてる者もいる。
(大変なことをしたらしいな・・・)
 おぼろげな認識だけが得られた。彼女に迷惑がかからないことをそっと祈りもした。
 そのうちに背広を着た男が、人をかき分けて僕と指導員の居る所まで来た。
 呆然としていた指導員はその男を見るとはっと我に返り、立ち上がってその男に耳打ちをした。どうやら指導員より男の方が偉いらしかった。その男の顔は見る見るうちに驚愕の色に染まっていき、僕の顔をじっと見据えた。失礼な奴だ、と僕は思った。大体さっきから皆が人のことを希有な存在のように扱っている。そう思うとだんだん腹が立ってきた。
「済みませんが・・・」
 僕が怒りを爆発させようと思いかけていたところに、男の声が割って入った。僕はきっとそっちを見ると、さも不機嫌そうに答えた。
「はい?」
「係りの者に聞いたところ、貴方は潜水が得意だという。・・どうですかな? うちで働いてみませんか?」

 そうやって僕の就職は難なく決まった。あの発言の後、僕が怒りを静めてしまったのは言うまでもない。むしろ驚きの方が勝ってしまい、男の言葉が信じられなかったほどである。
 家に帰って彼女にそのことを告げると、彼女は驚きながらも喜んでくれた。僕にとってあの初日はあまりいい日だったとは言えなかったけれど、彼女の嬉しそうな顔が見られただけで帳消しになった気がした。
 その後、指導員となるための手続きなどをしに何度か足を運んだが、どうやら僕は指導員に向いていないらしかった。全ての泳ぎが特殊で、感覚的に行っているらしい。そう言われてみると、僕は手や足をどう動かすという事をあまり考えないで泳いでいる節があった。確かにそれでは他の人に教えられないだろう。結局、僕は綺麗なフォームを見せたり、緊急の事故に対処する係になった。


 夢を見る。
 僕は電車に揺られて帰宅している。満員電車である。大勢の人に囲まれ、押し合いへし合いしている。なのに・・・・・僕は独りなのだ。
 周りの全てがホログラムに見える。淡く光り、今にも消え去りそうで、掴めない。僕だけがそこにいて、彼らと同じように振る舞っている。本当は異物なのにも拘わらず。
 とけ込んでいるように振る舞っていることに、僕は疲れを覚え始めている。本当の自分を爆発させたい気持ちになる。今まで曇っていた目は、急に爛々と輝きだし、脳細胞に染み込んでいたはずの霧がすっと晴れていく。そして偽っていたのは自分だと言うことに気付く。今思い切って手を突き出したなら、目の前に在る扉を透過するであろうと、予測する。けれど、実行しない。この平和な幻想を打ち破ることを恐れるからである。
 妄想・・・・なのだろうか。しかし、何かが違う。皆がそう考え、日常に甘んじているのだろうか。否、それを遙かに凌駕した何かを自分の内に感じている。なにか・・・・。
 ・・・解らない。そのまま口の中で呟いてみる。解らない。解りたくもない。解るはずがない・・・・・・。そこまで言って安堵する自分が居る。自分が在るのか無いのか、そんなことは知らない。ただ、解らないという事を解っている。それだけが自己を証明している。いや・・・そう思うしかないのである。
 そしてまた、僕は虚ろな目を振るまいだす・・・・・。


 終わらない夢だった。目が覚めてもそれの続きを演じているような気がする。終わらないにも拘わらず、目覚めはいつも同じタイミングでやって来た。虚ろな目を振る舞おうとする自分を認めたところで朝日を感じるのだ。そしてそのまま車内の光景は薄れていく。
 今日も、同じ夢だった。視線を横にやると、彼女はとっくの昔に起きていて、朝御飯を食べていた。
(今日はトーストだな・・・)
 そんな情報を嗅覚から得ていると、彼女が僕に気付いた。そのまま微笑みを投げ掛けてくる。
「おはよう。よく眠れた?」
「ん、なんとか」
「そう」
 彼女は決まってほっとした顔をする。僕は別に体が弱いわけでもないし、ひどい低血圧でもない。それでも彼女は僕の健康がいつも維持されていることを望んでいるのだ。
 ゆっくりとベットから足をおろす。くしゃくしゃになった髪の毛を片手でほどきながら洗面所に歩いていった。
 水を流しっぱなしにして顔を洗う。冷たい。
 プールにいた時、確かに僕は水を温かいと感じていた。あの水はここの水と変わらないはずなのに。今顔を濡らしている水は確かに僕とは別個の存在だが、あの時の水は何かが違っていた。何かしら一体感があった。
 考え込んでいたらしい。激しい水音が耳に届く。はっとして我に返ると、慌てて蛇口をきゅっとひねる。顔を拭きながら彼女が待つリビングへと向かった。
「水の無駄遣いはやめましょう・・・っと」
「なぁに?」
「何でもないよ。独り言」
 椅子を引いて彼女の向かい側に座る。目の前でちょっと小首を傾げている彼女はとても可愛い。思わず微笑んで見つめていると、彼女は笑いながら顔を背けた。
「ほらほら、冷めちゃうよー」
「ん」
 食欲はあまりなかったが、仕方なくトーストを手に取る。今日は仕事の日だった。しかも、珍しく海での実践である。しっかり食べておかなくてはいけない。
 彼女はおおかた食べ終わったようだった。食器を流しに出すと、寝室の方へ入っていった。ベッドの隣のドレッサーに座って口紅を引くのが見える。僕が毎日彼女の化粧姿を見ていることを、彼女はきっと知らないだろう。けれど、僕はその時間がとても好きだった。彼女が僕の彼女からみんなの彼女に変わる瞬間。その度に僕の心には、少しの寂寥と快楽が入り交じったような奇妙な感覚が生まれる。僕の知らない彼女になっていくこと。それは、逆に僕しか知らない彼女の存在をも表している。それが心地よい。
 彼女は少し自分の姿を鏡で確認すると、再びリビングに戻ってきた。
「じゃあ、私行くね」
 そういうと彼女は足早に玄関に向かった。バッグを持った片手を壁に押しつけ、もう片方でパンプスを一生懸命履いている。その背中に昔は疎外感を感じていたけれど、今は愛らしさの方が勝っている。僕はいつの間にか微笑んでいた。
 彼女はかかとをとんとんと鳴らすと、振り返った。僕の笑顔に気付いて微笑みを返す。
「じゃあ・・・」
「いってらっしゃい」
「うん。今日・・・頑張ってね」
 そう言うと返事を聞かずに、彼女は扉をくぐって行ってしまった。
 残された僕はゆっくりとパンを噛みしめていた。まるで食べ終わったらこの日常が消えていってしまうかというように。彼女の気配はもうこの部屋から消えかかっていた。


 蒼い。
 全てが蒼い。
 目に映る全ての物が、蒼いフィルターに通されていた。
 僕は自由だった。何をするも、何を考えるも、何処に行くも、誰を愛するも、全て・・・・自由。気分はこれまでにないほど高揚し、躰は羽根のように軽かった。
 何かが見える。
 安らぎの何か。
 それはぐんぐん目の前に迫って来、僕を迎え入れた。躊躇いも抵抗もない。
 そう・・・ここは還る場所。何も恐れるものはない。全ての始まり。僕の存在理由。闇は全てを産み、僕を愛し、今ここに在る。蒼い闇。
 途端、視線を感じる。後ろを振り返ると悲しみの瞳が僕を見つめている。
(誰・・・?)
 問いかけは届かぬまま消え去り、悲しみは嫌悪を含んだ。
 近づかなければいけない。けれど自由だった手足は今は動かず、瞳は遠ざかっていった。
 (早く早く・・・・あそこへ・・・・・)

 電車の振動ではっと我に返った。大丈夫ですか、うなされてましたよ、という隣の人の気遣いに曖昧に答えると、僕は窓の外を見つめた。
 電車は目的地の駅にちょうどさしかかったところだった。鈍い音とともに電車が足を止める。僕は重い腰を上げ、講習生と一緒に電車を降りた。ホームには人がいなかった。老女がベンチに腰掛けているだけである。改札員さえ居なかったので僕たちが戸惑っていると、奥から慌てて1人の中年が出てきて、切符を集めてくれた。
 空は晴れていた。波は静かで、講習を受ける人たちはほっとしたような表情を浮かべている。荒い海ほど泳ぎにくいものはないからだ。浜にも人はほとんど居なかった。僕はここら一帯がプールの経営者の土地だという話を思い出した。そのために今日は僕たちの貸し切り状態なのだろう。練習にはもってこいである。
 日差しは目眩を感じるくらい強く、海に当たってきらめいていた。更衣所はすぐに見つかった。講習生に着替えるように指示をすると、僕自身は物陰で着替え始めた。さらけ出された素肌にすぐに絡みつく日差しを感じながら、僕はゆっくりと行為をした。その間、視線は海にあった。
 泳ぐための体操をしている間も僕は海を見つめていた。似ていたのだ。あの蒼に。見つめれば見つめるほどそっくりになってくる。海の蒼は僕の目に染み込んでいく。視界に住み着いて離れないような気さえする。蒼が僕の中を奔流する。
(悪い妄想だ)
 そう考えて頭を1つ振ると、皆に体操中止の指示を出した。
 講師とは言うものの、ほとんど仕事はない。一緒に来ている人たちは皆、とても上手に泳げるのである。いわば僕は、この海辺の私設監視員と言うところだろう。事故や天候にのみ気を使っていればいいと、前回の指導員から聞いていた。
「じゃあ、みなさんご自由に」
 そう言って軽く片手をあげると、みんなはバラバラと海に入っていった。
 僕は白いホイッスルを首に掛けると、海辺に設置されている高い椅子に座った。ここからならば、皆のことがよく見える。波は穏やかなままだった。遠くからうち寄せてくる白い波が、いくつも連なっている。僕は軽く目を閉じると、長時間日差しの元にいる心構えをした。監視役なのだから、考え事をしていてもいけない。だからといってそんなに集中力が続くものでもなかった。仕方なく僕は海を見つめていた。
 あの蒼がまた目に飛び込んでくる。押しては返す波が、僕を誘惑するように身をくねらせている。湾に区切られた海は、遠くの方でぐんと広がっていた。浮き玉で湾が区切られている。おそらくそれ以上人が出ることを禁止しているのだろう。水面が微かにきらめいているのは鳥だろうか。浮き玉の向こうの海の方が、僕の趣味にあっているような気がした。流れも速く、広い。当然正常な人はそんな危険な場所に足を踏み入れないだろう。けれどなんとなく惹かれていた。あの蒼の中で泳ぐ自分をイメージする。
 僕はどれくらい考え事をしていたのだろう。浜の方に目をやると、疲れたのか、もう何人かは浜に上がっていた。そのうちの1人が、僕の方を見て何かを願うような表情をしている。腕の時計を見るともう昼近くだった。昼休みにするのが適当なのだろう。
 僕は椅子から降りると、ホイッスルを2回吹いた。その音を聞いて、みんなが水から上がってくる。僕の方を見ていた人がほっとしたような表情を浮かべる。
「じゃあ、各自昼食を取って下さい」
 僕はそれだけ言うと、集まっている人たちを解散させた。早く泳いでみたくてしかたなかった。
 皆がてんでんに昼食を広げているのを視界の片隅で確認すると、僕は準備運動を始めた。軽い刺激を伴って筋がのびる。これから魚のように泳ぐことを考えると、心が震えた。全てが自分の意のままに動くように、僕は丹念に運動をした。

 海は温かかった。入る時に感じた外気との差は、瞬く間に消え去っていた。記憶の蒼と重なるように、目の前を水が通り過ぎていく。気持ちがいい。
 僕はしばらくの間、無我夢中で泳いだ。決して水面に出ることなく、魚のように身をくねらせた。自分が何処にいるのか、見当もつかなかった。恐れはなかった。ただ触れては去っていく水を惜しむ気持ちで泳ぎ続けていた。
 そのうち、海の色が微妙に変わってきたことに気付いた僕は、水面に上がってみることにした。ひんやりと外気が僕の顔を迎える。水の中の方が気持ちよい気さえした。辺りを見回してみると、そこはあの浮き玉の1一歩手前だった。確かに、そこから先は潮流が速くなっている。気付かなければあの先に行けたのに、とつい思ってしまう。だが顔を上げたものは仕方がない。僕は急いで引き返すことにした。ラインに気付いた以上戻らなくては手本にならない。浜辺ではもう皆が動き出していた。

 浜辺に帰った僕は、またあの高い椅子の上に腰を下ろした。午後の一泳ぎを皆がしている間、僕の思考はあの境界線の向こうにあった。いつか行ってみたい、今度彼女を誘おうか・・・など、とりとめもない考えが浮かんでは消える。何故こんなにも惹かれているのか。解らないけれど、行ってみたかった。むしろあそこへ到達することで、僕の中の何かが変わるのではないかという淡い期待さえあった。自分の記憶もないのに、何かを感じている。そう考えている自分を見つけて、僕は小さく苦笑いを浮かべた。


 あの浜に行って数週間後、僕と彼女はめずらしく休みを一緒に過ごすことになった。彼女はやり手で残業や休日出勤が多かったし、僕は普通の人が空いている時間に仕事をする。2人の休みが上手くかみ合うはずもなかった。しかし彼女が連休に休みを取り、スクールが整備のために休みになった。2人は久々の揃っての遠出に、嬉しさを噛みしめていた。
「ねぇねぇ、何処行く?」
 彼女が甘えるように声を出す。机の向かい側で両手に頭を乗せている彼女は、本当に嬉しそうだった。僕まで思わず微笑んでしまう。今回は彼女の意見を十分に尊重しようと思っていた。あの海に行ってみたくはあったのだけれど。
「そうだね・・・どこか行きたいところは?」
「どこでも! 2人でいけるだけでも嬉しいもの」
 じゃあ・・・・と僕は切り出した。あの海に行ってみることを提案したのである。あれから、あの蒼が僕の頭を離れたことはなかった。むしろ、日を追うごとにあの蒼が鮮明になっていく。このもやもやを吹っ切ってしまいたかった。
 彼女はあっさりと同意した。この街が海のない街だから、彼女は景色を変えるためにも丁度いいのではないかと言った。
「それ、ステキじゃない」
「そう? じゃあ、宿の確認をしておくよ」
「お願いね」
 彼女は素直に喜んでくれた。彼女も泳ぐのは得意な方なのだ。久々の海かぁ、とわくわくした素振りさえ見せていた。
 休みが重ならなかったら1人でもあそこへ行くつもりだった僕は、前もってオーナーに借りることを頼んであった。人数が変わるのだがいいか、と問い合わせると、その時期なら誰も使わないから、と2つ返事で承知してくれた。彼は僕の泳ぎを買ってくれているようだった。1人で行くつもりだったことは、とうとう彼女に言わなかった。なんとなく・・・・告げたくなかったのだ。


 準備期間はあわただしく過ぎ去って、とうとう念願の旅行の日となった。
 彼女と2人の旅は楽しかった。現地に着いたときにはもう昼過ぎで、彼女の提案で泳ぐのは帰る日になった。結局来た日はそこらの土産物屋を見て回ったり、ちょっとした観光地に足を運ぶことになった。彼女はちょっとしたことにもはしゃいだ。土産物を使ってふざけたり、可愛い生き物に感動している姿を見ると、僕まで幸せだった。彼女と出会えたことを感謝せずにはいられない。僕は彼女の笑顔を途切らせないよう、さりげなくエスコートしていった。
 宿はあの浜から1駅離れたところにあった。こじんまりとしていて風情のある宿だった。彼女は大喜びしていた。僕は安心した。あの浜一帯が私有地であるため、普通の宿は見あたらなかったのである。オーナーに聞けば見つかったのだろうが、そこまで世話になるのは悪い気がした。そして何よりも、海の近くにいるといつの間にか自分が惹かれていってしまいそうで、少し怖かったのだ。彼女のための旅行だと、僕は自分に言い聞かせていた。もしそう言わなかったら別の目的を実行しそうな自分に、歯止めをかけるかのように。

 朝が来た。
 僕らはあまり増えてない荷物をまとめると、宿を引き払って海を目指した。1駅分を移動している間、車窓から見える海の蒼さに僕は見入っていた。彼女も僕の視線を追って振り返ったが、すぐに手元の文庫本に目を落とした。きっと興味がないのだろう。僕は少し落胆した。それともこんなにも惹かれ続けている自分の方がおかしいのだろうか。
 あの浜に近づくにつれて、海のグラデーションが細かくなっていく。あの海の側に行こうとしている。この事実は僕の胸を締め付け、けれども同時に高鳴らせた。
 浜には予想通り誰も居なかった。彼女は手早く座る場所を作ると、更衣室へと消えた。僕はそんな彼女の背中を見つめ、その姿が消えるまで動かなかった。すでに水着は下に着けていた。昨日無意識にやっていた行動だった。
(それほど僕は海に惹かれている・・・・)
 改めて認識すると、何とも言えない気持ちになった。それを振り払うように、ズボンとTシャツを脱ぐ。そして1人海に近づいた。海はあの時と変わりない蒼さをたたえていた。波は穏やかで、どことなく手招きをしているようにさえ見える。僕はつぶやく。
「今、行くよ・・・」
 振り返ると、彼女の姿はまだなかった。僕は少し苛立った。早くこの蒼に触れたかった。僕と海の間の磁力はいまや最大に強まっていて、僕はこのはやる気持ちをどうすることもできなくなっていた。
 キャンプシートの下に戻ると、手帳を破って手紙を書いた。先にひと泳ぎしている、と。これを残しておけば彼女も平気だろう。そう無理矢理に自分を納得させると、軽く準備運動を始めた。念入りに身体の各部をほぐしていく。今日はなんとしてでもあの先に行かなければいけない。肉体的なアクシデントはあってはならなかった。
 全ての筋と筋肉が程良くなったのを感じて、僕は海へと足を踏み入れた。そのままゆっくりと歩いていく。水が僕の衣となり、ついには肩までを包んだ。そのまま息を深く吸い込むと顔を沈める。柔らかい布団に顔を沈めるような感触が肌を伝わる。ゆっくりと目を開けると、僕は水を蹴って進み出した。

 どこまでも続く優しさの中をかき分けていく。肌に触れては消える水の手が心地よくて、僕は飽きることなく先を目指した。たまに口から漏れる気泡が空を目指して逃げていく。目で追うときらめきが眩しい。少し目を細めると、また前を見つめた。
(そろそろか・・・・)
 海の色が違ってきていた。今度は水面に戻らない。進むのみである。泳ぐことは辛くなかった。まるでそれが本来の動きのように、僕の体は無理なくくねる。いつまでも続けられそうだった。そして僕は深い蒼に触れた。
 横向きの流れが僕を翻弄する。明らかに速さの違うそれにとまどいながらも、一番無理ない進路を取ることに成功した。そもそも目的が在るわけではない。この蒼に包まれさえすれば良かった。あの夢の蒼に・・・・。
 海流の力を借りて、僕の体は信じられないほど速く移動していた。湾の壁に向かっているようだと、僕は見当をつけた。ちょうどラインの少し先を、ラインと平行に泳いでいるのだろう。戻れないという事態は避けられそうだった。確か、かなりの距離が砂浜になっていたはずである。壁にぶつかれば浮上して砂浜に上がればいい。歩くより泳ぐ方が楽かとも思ったら、この潮流を考えるとそれは出来そうになかった。とにかく前方に目を凝らしてぶつからないようにすればいい。
 いつのことだろう。なにか光るものが僕の頭をよぎった。何か予感のような光。ふと前方を注意してみると、そこには何かが居た。光のかたまりのようなものが海の中にあり、それは僕の見知った何かであるはずだった。そこから流れ出てくるやさしさは、確かにこの体が知っているモノだった。そう、僕は僕の夢と同じ光景を目の当たりにしていた。
(行かなければ・・・)
強い使命感が、僕を襲った。手足が無意識のうちに動きを増す。目の前のものがだんだん膨らんでいっても、僕の焦燥感は消えなかった。そして、ついに僕は光の海へ潜り込んだ。


《ダレ・・・・・?》
《知らない人だ・・・・・》
《ああ・・・・・おかえり・・・・よく戻ったね》
《・・・待ちかねたぞ》
 それは信じられない出来事だった。自分の頭に人の声が入ってくるのだ。それも何人も。それは互いに反響しあい、僕の頭の何かを暴こうとしていた。
(な、なんだこれは・・・・)
 声だけではない。目の前に在る全てが、僕の居た現実とあまりにもかけ離れたものだった。何も纏わない男女が無数にいる。みな髪が長く波に揺らいでいる。海底にある大きな貝から少年が目覚めようとしている。魚と微笑み会う少女が居る・・・。そして海中に浮かんでいた数人は、僕の方をじっと見つめていた。
《忘れてしまったの・・・?》
《ここが貴方の故郷。貴方はここの人・・・》
《オニイチャン、オカエリナサイ・・・》
 間違いがなかった。この頭に響く声は目の前の人々が発したものだった。僕は驚きのあまり口をゆるめてしまった。大きな気泡がゆらゆらと昇っていく。
(しまった!!)
 あわてて水面に上がろうとした僕を、押しとどめるように声が響く。
《何をあわてているの・・・?》
《大丈夫よ・・思い出して・・》
(思い出す? 何をだ・・?)
 頭に響く言葉は僕をかき乱す。脳の中の眠っていた部分に砂塵を巻き起こす。そうして、気付くと僕は息をしていた。
(あ・・・・・)
 苦しくない。酸素などもう1かけらもないはずなのに。口を開けば水が満たす。本来ならば呼吸困難に陥っているはずなのに、苦しみはなかった。いやむしろ・・・楽なのである。僕の動揺は波動として伝わっていたようだった。頭にまた声がこだまする。目の前の少女たちが笑う。
《くすくす・・・当たり前じゃない》
《貴方はここの人だもの・・・・海に住まうものだもの》
(海に住まう者・・・・?)
 なんだろう、この響きは。今初めて聞くはずなのに、耳慣れた言葉。
《そう・・・海に住まう者》
《忘れてしまったのね・・・・可哀想に》
《じき思い出すわ・・・おじいさまに会えばいい・・・・》
 おじいさま、とは誰なのだろうか。僕が何も分からずに佇んでいると、年輩の女性が僕に近づいてきた。
《おいでなさい。長老がお呼びよ》
 水がざわめくのが分かる。少女達の反応から、その長老こそがおじいさま、と呼ばれていた人物なのだろう。僕は躊躇ったが、結局ついていくことにした。それ以外にとる行動も見つからなかった。
 少し光の水の中を進むと、大きな2枚貝があった。水中で虹色にきらめき、その光は決して激しくない。安らかさを与えてくれる色だった。
 年輩の女性は僕をそこまで導くと、すっと去っていってしまった。僕が所在なく浮いていると、目の前で2枚貝がゆっくりと開いた。中から背の低い老人が現れる。皆が何も纏っていないのに、彼だけは白い薄衣を1枚、体に巻き付けていた。外見に似合わない張りのある声が頭の中に響く。
《よくぞ戻ってきたな・・・》
(戻ってくる・・・? 僕はやはりここの住人なのか・・?)
 僕の考えることは全て相手に伝わるらしかった。老人はゆっくりと頷きながら、また僕へと思考を投げかける。
《そうだ。お前は使命を持って記憶を無くし、また取り戻した》
(使命・・・)
 何を僕は追っているというのだろう。僕の記憶はなにかのために故意に封じられたというのだろうか。だとしたら、何のために・・・・。
《お前は、お前の従妹を探さねばならぬ》
《お前が彼女を見たときに、お前の記憶は全て戻り、彼女が分かるであろう》
(僕は何をするのですか・・・・?)
《彼女の記憶を取り戻す手伝いをするのだ。そして2人で還っておいで・・・》
 老人の言葉がこだまする。目の前でまた貝が閉じていく。もっと聞きたいことがいっぱいあるのに、僕は動けないでいた。
 僕に・・・従妹がいる。僕はここの住人であり、従妹と2人でここに戻る運命である・・・・。
(だとしたら・・・・)
 僕は困惑した。僕と彼女のいままではどうなるのというのだろう。僕はまだ見ぬ従姉妹を捜している間に力つきたのだろう。そして彼女と出会った。僕はまた彷徨わなければいけないのか。今の幸せを全て捨てて。本来あるべき所へ、本来あるべき人と・・・。
(嫌だ・・・)
 僕は頭を激しく振った。その波動で寄り集まってきていた魚達が遠ざかる。
 彼女との幸せが嘘だとしても、僕はあの空間の中に身を投じていたかった。何よりも彼女を愛していた。今を失うことは、僕の記憶が戻らないことよりも大切だった。そう思うと、彼女のあの笑顔が見たくなった。ここにいる自分が疎ましくなった。
 見えない涙を流し、僕は静かに泣いた。魚達がゆっくりと心配そうに寄ってくる。僕の頭の中につたない言葉が入ってくる・・・。
 どうやら、海に住まう者は魚達とも話せるようだった。周りを見ると楽しげに話している人と魚がいる。僕もそれに習って話してみることにした。目の前にいる数匹の銀色の魚は、僕を随分慰めてくれた。彼らとつたない言葉で水のことを話すのがとても楽しい。しばらくすると僕の顔に笑顔が戻ってきていた。

 突然、海流が乱れた。魚が逃げる。仲間達も貝殻を閉めたり、藻の蔭に隠れたりした。何が起きたというのだろう・・・?
 よくよく目を凝らしてみると、水が不自然に動いている一角がある。その波動はこの安らかな光の海に海の暗さを持ち込んでいた。暗い中に何かがうごめいている。暗い鋭い意志のようなものが僕を突き刺した。僕ははっと息をのんだ。
 それは彼女だった。水着姿で僕を見つめている。僕は手を振ろうとして気付いた。彼女は笑っていなかった。目は大きく見開かれ、手足だけが小刻みに動いていた。その顔には驚愕と嫌悪のみが張り付いていた。彼女はまるで僕がお化けであるかのように見つめていた。
 彼女が何かを言おうとして口を開く。途端に彼女はもがきだした。大きな気泡が1つ、水面に向かって上がっていく。彼女はそれを追いかけるようにして浮上していった。僕の方を一瞬見つめてから。
 僕は呆然としてそれを見ていた。何故彼女はあんな目で僕を見たのだろう。なぜあんな暗い水流を作るのだろう。なぜもがくのだろう・・・・水にはこれだけ酸素が在るのに・・・。
 そこまで考えて僕は気付いた。普通の人間なら水の中で息が出来るわけがない。そう、水泳教室でも教わっている。僕は慌てて彼女を追いかけた。一刻も早く彼女を水面に戻さなければいけない。
 彼女の足を見つめて追い上げながら、僕はさっき言った自分の言葉の意味を考えていた。
(そう・・・普通の人間なら・・・・)
(じゃあ・・・僕はいったい何なんだ・・・・?)

 水面近くで彼女の体を捕まえた。そのまま息を思いっきり吸わせる。彼女はなんとか意識を保っていた。僕の手を軽く振り払うような仕草を見せたが、すぐにぐったりとして僕に体重を預けた。
 下の人たちに挨拶できなかったのが心残りだったが、ともかく彼女を抱えて近くの岸まで泳いだ。幸い砂浜が続いていて、僕らはすぐに陸に乗ることが出来た。彼女が軽くせき込みながら口に残った水を吐く。僕はなんとなく不自由さを感じながら砂を踏みしめていた。水から上がるときは体が重く感じると言うが、それだけではないなにかがあった。
 彼女の体温を確かめようと手を伸ばした。彼女がびくりとして避ける。顔は絶対にこちらを見ない。全身が僕を遠ざけていた。僕は伸ばした手を握りしめるしかなかった。ここまで拒絶されたのは初めてだった。
 そのうちに彼女はふらふらと荷物の方へ歩いていった。支えたかったけれど、さっきのことがあったので僕は手を出せずにいた。大丈夫?、と話しかけても答えてくれない。結局僕たちは言葉を交わさないまま、服を着、電車に乗り込んだ。彼女がすぐに帰りたそうだったからだ。いや、むしろ僕を置いてでも帰る、といった感じだった。
 電車に乗っている間も、彼女は俯いて押し黙ったままだった。何も反応してくれない。僕と彼女の席の間は10数センチだったけれど、心は何海里も離れているようだった。僕は仕方なく海を見つめる。いつかこの蒼に還ることを考える・・・・。

 マンションのエレベーターを降り、見慣れた玄関に着く。彼女は先にカギを開けると、さっさとドアの隙間から滑り込んでいってしまった。いつもならドアを開けて待っていてくれるのに。僕はあわてて閉まりかけたドアノブをつかむと、自分の体を部屋に押し込んだ。
 彼女がテーブルに荷物を置くのが見える。僕が駆け寄ろうと思って動き出した途端、彼女は暗い声でつぶやきだした。
「何なのよ・・・。貴方がおぼれたと思って、頑張って泳いでいったら・・・・。あんな・・・・魚が怯えてなくて、全然苦しそうじゃなくて・・・・!!」
 彼女の声がだんだんヒステリックになっていく。僕は彼女から離れたまま、近づけなくなった。我ながら情けない声が喉を突いて出る。
「舞子、落ち着いてくれ・・・」
「落ち付けですって!? これが落ち着いていられると思うの?」
 彼女が激しく振り返る。髪は乱れ、目には大粒の涙。一瞬、彼女が赤い仮面をかぶった鬼のように見えて、僕はとまどった。
「舞子・・・・」
「何なのよ・・・。・・・・貴方、誰なのよ!」
「え・・・・」
 彼女はもう自分が何を言っているのかさえ解らないのだろう。ぼろぼろと涙をこぼしながらうつむき、頭を振る。しかし彼女の発したその言葉は僕を鋭く貫いた。
「人間じゃない。貴方なんて人間じゃない!! 近寄らないでよ!!」
「・・・・・・・!」
「これが代償だって言うの・・? もう嫌よ!」
 そう言い捨てると、僕にクッションを投げつけ、彼女は寝室に閉じこもってしまった。呆然とした僕の耳にカギをかけるカチリという音だけが聞こえる。僕は動けないでいた。彼女の言葉が頭にこだまする。
(人間じゃない・・・・)
 そうだ・・・・。解っていたはずだ。海のあの時から。彼女と離れたくないが為に僕はその認識を理性から消し去っていたのかも知れない。しかしそれは今愛する彼女の声によってまざまざと焼き付けられた。
 知らない内に涙が頬を伝う。この幸せが崩壊したことを知ったからだ。口の端がつり上がる。声にならない笑いに突き上げられて僕は揺れた。何も考えられなかった。ただ哄笑だけが僕の頭に渦巻いていた・・・・。


 正気に返った僕が取ることは1つだった。ここを出るのだ。彼女に嫌われた以上、もうこの空間にいる必要はない。いや、権利さえない。
 僕はここに来たときに身につけていたものを纏った。黒いズボン、黒いシャツ、黒いコート、黒い帽子。荷物は持たなかった。ここに来てから買ったものはいくつかあったが、今となっては必要無い。もともと、何も持たずにここに来たのだ。また彷徨えばいい。彷徨う内に必要なら手に入れるだろう。物もお金も・・・・人も。受け取ってあった給料の半分だけを封筒から抜き出すと、それだけをポケットに詰め込んだ。
 寝室からは物音1つ聞こえない。泣き疲れて寝てしまったのだろうか。最後に1度、顔を見ようかとも思ったがやめた。今更会って何をしようと言うのだろう。せいぜい錯乱した彼女に罵倒されるくらいだ。そんな彼女を見るのは辛かった。ただ扉の前に佇んで、深々と頭を下げる。彼女が僕にしてくれた事全てに対する感謝の気持ちだった。
 玄関に立ち、もう1度後ろを振り返る。ここで暮らしたあの幸福な光景だけは決して忘れないだろう。僕と彼女の些細な喜び。もうそれすらも得られない・・・・・。
 僕は自嘲の笑みを浮かべると、ドアに手をかけた。軋んだ音がしてドアが開いていく。もう、これをくぐることも無いだろう。そんなことを思いながら僕はこの空間から消えた。
 僕がドアを閉じたとき、中から何か物音がした。けれど僕は振り返らなかった。


   *おわり*



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