「遠くへ……」
 地下鉄に揺られていたとき、不意に声がした。
 知らない声だ。さりげなく周囲を見るが、みな蝋人形のように無表情で、ついさっき口を開いたような形跡はどこにもない。
 ため息を一つつくと、僕はまた地下鉄のドアの外を眺めた。

 薄暗い地下道の壁を、無数の線が非並行に流れてゆく。壁自体が収縮したり膨張したりしているように見える時折、白い光が目の前を走っていく。酔うことはあっても、飽きることはなく、電車が駅に入りかけて徐行すると、いつも急につまらなくなる。
 黒く壁に蔓延った線の、機械的役割などは考えたこともなかったが、絶対者から見た人の道とはこうなのだろうか=Aと思うことは幾度と無くあった。
 時折交差しては離れていく個々の線。歩いている当人たちは、いつからいつまでどれと交わっているかも気付かぬまま、始点から終点までを、自分のペースでひたすらに歩んでいる。そんなイメージ。
 僕らの道とこの目の前に走る線の違いといえば、これらの線はほかと交差したからといって、線自体の太さや色や硬さが変わるわけではない、ということだ。
 僕は数日前、ある一つの終着駅へ訪ねていった。

  *  *  *

 見たこともないような色彩の冷気が、その襖の隙間から流れ出ていた。案内する大叔母の足取りは重く、気を抜けば崩おれて、足元の擦り切れた木の床と同化しそうだった。  そんな覚束ない足取りに誘われるように、僕はある部屋へとたどり着いた。

 大叔父の部屋。
 見慣れたはずの和室は、どこか違和感を感じさせた。漠然と、色彩だけを眺めて、僕はそう思った。
 そうだ――いつものあの黒い革張りの椅子が無い。

「がらんとさせないと、置けないっていうものだからね……」
 僕の心を察したかのように、大叔母が弁解めいた口調で呟く。
 僕は僅かに頷くと、部屋の中へと歩を進めた。
 まず視界に入ったのは、なにかを囲むように、正座して俯く親族たちの背中だった。黒い靄のように、部屋の中で時折揺れている。
 それを見ているうちに、さっき廊下から見えていた冷気が、僕の足元に絡みついてきた。弱々しく、しかし確実に纏わりつくそれに、僕まで膝を折りそうになった。無意識に抵抗して、その場にでくのぼうのように突っ立つ。
 わざと焦点をずらした視界に、蠢く黒――しかし闇よりはとても善良な――が染みた。
「ああ、来たのかい」
 声に反応して焦点を戻せば、親戚の一人が僕に気付いて後ろを振り返ったところだった。
 父の弟、叔父にあたる人だったように思う。
「ええ」
 自分でも驚くほど滑らかで――低い声が出た。
 その声を聞いて、他の親族たちの作っていた半円が、僅かに左右に割れる。僕がそこに入れるように、という配慮なのだろう。
 しかし僕は、“それ”が十分に見える位置まで近づくと、また立ち尽くした。

 白い、長い箱だった。
 箱の縁からは光沢を持った、箱よりも更に白い布(きれ)が垂れていて、縁につけられているいくつもの金の房が重たげだった。その衣の中、幾重にも重ねられた白と金の布の奥に、僕の捜していたものは在った。
(こんなものなのか……)
 無表情な言葉が心の中で湧いた。
 眠っているように、ともまた違う、見慣れた大叔父の顔がそこにあった。ドライアイスが絶え間なく白い煙を吐き出す中、大叔父の顔は青ざめてもおらず、しかし血色があるようでもなく、本来の肌そのもののような色をして横たわっていた。
 跪かなければ非礼になるのかも知れなかったが、絶対にそれだけはするものかという意思が働いた。やってしまったら、動けなくなる。自分が制御できなくなる。制御を失えば、状況を全て把握し整理することが出来なくなってしまう。
 手近な柱に身を預けて、僕は大叔父の姿をじっと見つめ続けた。

 死体を見るのは、正直初めてだった。
 故人の家族が「生き返ってきそうで、忍びなくて」といってなかなか棺を手放せないなどという話は割と聞くが、なるほどと思えなくもなかった。
 ただ、どこかが確実に違う。生きている人間が通常持つ、俗に言ってしまえばオーラのようなものが、大叔父の体からは既に出ていなかった。抜け殻だ。科学的に人体を構成するものは全て(勿論、血液などは抜かれているのかもしれないが)揃っているのに、どこか抜け殻だ。夜中こっそりこれを切り開いたら、中は宇宙だった、とでもなってくれた方が、余程得心がいく。そんな雰囲気だった。空なのに、ぎっしり神秘が詰まっているようなのだ。こんな感覚に陥るのは、これが手の届かない、自分が当事者になるまで、予知することさえ出来ない現象だからなのか。

「……弘道くんは、明日は?」
 不意に背後から大叔母の声がした。
 離せなくなっていた目を、無理やり引き剥がして、どう考えても二周りほど小さくなってしまった大叔母を見つめる。
「僕は明日は……」
「それでいいさ。学生だしな」
 父の飲み相手でよく家にもきていた別の叔父が、大叔父を囲む輪から顔をこちらに向けて、勝手に補足した。
「弘道の住んでいるところは、割と離れているし」
「そうね……なにが、変るわけでもないし」
「そうそう。……ちゃんと挨拶は済んだんだろう?」
 叔父が笑顔で僕を見上げる。
 僕は、無表情で俯きそうになるのを回避して、小さな笑いを口許に作った。
「ええ」
「そう……ならいいわね。お父様は来るのよね?」
「はい、今日はどうしても抜けられない仕事があったようで」
 大叔母は小さく幾度か頷くと、また部屋の外に消えてしまった。
 人が多いときは傍によらず、夜はずっと独り傍に居るのだろう。大叔父が最後の最後まで寂しくないように、と。
 泣いたりしてしまうのだろうか。僕の涙腺にはまったく涙がやって来ない。あれだけお世話になっていたというのに。
 進路のこと、科学のこと、大叔父の若い頃のこと……。退官年齢まで物理の教員をやっていた大叔父は、常に穏やかな口調と眼差しで、小さな僕の意思全てを受け止め、求めることの糸口を与えてくれた。し識ることを重んじ、更に思考することを大切にしていた人だった。
 中学に上がってすぐ、親に内緒で遠出した最初の行き先もここだった。血のつながりは薄くとも、僕は大叔父を叔父さん≠ニ近しく呼び、心から慕っていた。
 しかし今、大叔父と話したことも、大叔父の独特の身振りも、浮かび上がっては来なかった。絶対的な死≠ェ、目前の白い箱となって具現化し、僕の記憶を黙らせていた。


 外に出れば日差しが眩しかった。
 親族たちに軽い挨拶をし、送っていくと申し出てくれた叔父の好意を断って、僕は駅までの道を早足で進んだ。途中ネクタイを取った。上着も脱いだ。丸めてリュックに突っ込んだ。後から母親に怒られることは必須だったが、そんなことはどうでもよかった。
 道路ばかりを見ながらロータリーに着いた。駅のホームを見上げれば、既に電車が向こう側からやってきていた。
 慌ててパスカードを改札に通し、二段飛ばしで階段を駆け上がると、閉まりかけているドアに体をねじ込んだ。そのまま勢いで向こう側の扉までたどり着き、寄りかかる。

──僕にはまだ、通るべき駅がいくつもある。

「……終らないんだな」
 呟いてから、両手を見た。
 先程、大叔父の首に触れた手。此岸と彼岸を分かつ川を渡るときの銭が、そこに入ると考えられているらしい金の袋を、僕は大叔母から渡され、逆らうことなく大叔父の胸においた。偶然触れた大叔父の皮膚は、冷たく硬く、生前あまり触れた記憶のない僕は、そればかりが大叔父の肌の記憶となってしまいそうで怖かった。そして、大叔父から流れる冷気を、この指先から受け取ってしまいそうな不安を抑えながら、無表情で作業を済ませた。
 今見つめる自分の手は血色がいい。もうあの行き溜まり特有の淀んだ冷気は宿っていなかった。
逃げおおせた。
 そんな不遜な感想が心を過(よ)ぎった。

 窓の外を見れば、いつもと変らぬ街並みが続く。
 東京とは違った、少し薄い色合いの空を眺めながら、僕は今見てきた画像記憶を、全部言語記憶に変えようとしていた。画像記憶は鮮明すぎる。鋭すぎて、神経に痛い。だから、ゆっくりと咀嚼し消化する必要があった。
 当分は、この衝撃の余波を味わいつづけるとしても……

  *  *  *

「……!」
 ドアの閉まる音で、僕は現実に引き戻された。
 慌てて、速度を増して遠ざかっていく柱から、駅名を読み取ろうとする。
 大丈夫。あと一駅ある。

 あの声はなんだったのか。
(どんな、声だったっけ……)
 思い出そうとしたその瞬間、また声がした。
「遠くへ……」
 今度は、集中していたので分かった。
 これは声であって声ではない。僕の頭の中で、直接響いている。
 穏やかな口調だ。そう、丁度――
「……叔父さんか……」
 小さく、口に出してみた。
 言葉にすれば、それは至極確かなものであるように思えた。今まで、分からなかったのが馬鹿みたいに思えるほどだ。
(……何を伝えたいんだよ、叔父さん)
 遠くへ、どうしろと言うのか。
 行け?
 何かをやれ?
 ……わからなかった。
 ただ、僕の核は、それを容易くわかっていた。
 ただ、遠く、なのだ。それだけで十分であり、それ以上は真の意味を薄れさせるだけのものだった。
 力ない目で、もう一度辺りを見回す。相変わらず、能面のように人は並んでいる。彼らを誘(いざな)う道は、今どうなっているのだろう。この思考を持つ僕と、この空間をこの瞬間共有するという偶然。それはどのくらい、各々に影響するのだろうか。大したことがあるのか、ないのか。その答えは、多分永遠に思考の外だ。
 今の一瞬続いている皆の道が、次の一瞬崩れたりせぬようにと、僕は全く気まぐれに心の中で祈った。


 家の最寄駅に降りたってから、彼女に電話をしなければいけなかったことをふいに思い出した。
 エスカレーターをあがり、改札前の広場に寄ると、駅文庫の狭い机に、遠慮しがちに腰掛けた。猫背になり、バランスをとってから初めて、随分自分が気負って背中を張っていたことを知った。節々が痛い。
 携帯電話を取り出し、履歴から彼女の名前由紀≠探し、ダイヤルする。
 なかなか出ない。無機質なコール音ばかりが、頭に溜まっていく。
 僕は、実体のない電波空間に縋るような心持ちで、由紀の声を待った。
(出ろ…………!)
《はーい、遅かったね》
 目をギュッと瞑って祈った瞬間、由紀の突き抜けるような声が聞こえた。
 聞こえないように息を吐くと、僕は少し机に座りなおした。
「……待ってた? ごめん」
《いいよいいよ。で、明日会えそう?》
「ん、大丈夫そうだよ」
《お葬式…だっけ? 出なくていいの?》
「え……?」
 一瞬、なんで知っているんだ、という疑問が頭の中を飛び交った。それから僕は、大叔父の訃報を聞いたときも、丁度由紀と電話していたのだということを思い出した。そして、日曜日の約束を確定にしないまま、急用が出来たから、と会話を止めたのだった。
(ちゃんと聞いてるんだな……)
 朝から凍りついたままだった僕の口許が、微かに緩んだ。
《……おーい? 聞こえてる?》
 由紀がひょうきんに声をかけてくる。
「あ、いや、もう済んだんだ。近しい親族じゃないし」
《そか……ならいいんだけど》
 それから他愛もないいつもの会話がしばらく続いた。
 僕はまだ声を本調子に出来ないまま、軽口を叩いたりして、いつものような二人の空気を作ろうとした。由紀に余計な心配はかけたくなかった。
 しかし、言葉は僕の頭蓋骨のすぐ内側を流れていった。まるで、ただランダムな会話テープを再生してしまっているような気さえした。
 由紀は、概ねいつもと変らないような明るさを見せた。時折、言葉が淀む僕のペースに合わせながらも、何一つ無理はしていないというような自然な態度でいてくれた。当たり前なのかもしれないが、そんなことが嬉しかった。もし、由紀がストレートに僕のことを訝って、僕の今の状態を問うたとしても、僕はこの状態を上手く言葉にすることが出来ない。
 一つの話が途切れたとき、由紀が不意にこう聞いた。
《ね、もし私が死んじゃったらどうする?》
 由紀の口調には、探るような調子も、真剣な調子もなかった。ただぽんと、普通の恋人同士がするもしもごっこ≠始めたような、さらりとした口調だった。
 だが僕は混乱した。死≠ニいう言葉に、予想以上に敏感になっていたことを、ふいに頭のてっぺんから通告された気分だった。
 今それを言うか、などと、困ってみせる余裕さえない。ただ、混乱した。ショートしてしまったみたいだ。ショックとはまた違う。なにかとても巨大な拒絶反応が、音のないブザーを鳴らしていた。
 そんな僕の中身とは裏腹に、口の低い位置からはすぐに、喘ぐ息のような声が出ていた。
「……いいから、死ぬな」
《だから、もし、だってば》
「もし、でも、だめだ」
《…………》
 漏れてしまった強い口調を聞いて、電話口の由紀は黙り込んだ。
 驚いているのだろうか。不機嫌になったか。
 それとも、今の僕の心境でも考えているのかもしれない。昔から、誰かの考えを知りたいと思うときは、相手を無言で見つめて、その内側を上手く見つけることの出来る娘(こ)だった。
 沈黙が長すぎて、その弾き出される結果が怖くて、僕は弁解気味に言葉を紡いだ。
「……なんでもないんだ。けどさ……」
 そこでまた口を噤む。けど、の後に何を続ければいいのか、自分でもわからなかった。
 実際、何も起こっていない。自分の身には特に何も。ただ、あまり会えなかった人が、もうずっと会えなくなっただけだ。
 会う可能性を抱えたままずっと会えていない時には、人は何の危機感も抱きはしないのに、どうして会う可能性がなくなった今、ふいに会えないことの空虚さを知るのだろう。今死んでいなくたって、これからその人が生きている間、会おうと思っていてずっと会えない人間は、世の中にたくさん居るのに。
 怖いのかも知れない。隠されていた自分の終着駅の存在を、ふいに耳元で囁かれるような恐怖。
《けど?》
 由紀は無邪気に聞き返してくる。
「……さあ……」
《ヘンなの》
「……そうだね」
 本当に変だ。
《でも、さ》
「ん?」
《弘道にとって、私ってちゃんと大事な人なんだね》
「なんだよ、急に」
《いいの》
 至極嬉しそうな由紀の声に、僕はなんだか面映くなった。
 顔をしかめて、からかい口調で反撃するしかない。
「……今更、だぞ」
 照れを隠し切れなかった僕の声を聞いてか、由紀は静かに笑った。
《そうね、でもね……》
「……」
《……じゃ、明日ね》
「あ、ああ……」
 何かを言いかけて由紀は電話を切ってしまった。
 通話した後の画面を、意味もなく見つめる。
 気付けば、顔の力が随分抜けていた。由紀の声が、僕の中身の靄をいくつか吹き飛ばしてくれたような感覚が、確かにあった。
「……偉大、って奴ですか……?」
 呟きながら、両手を上げて伸びをする。並んだ蛍光灯が、目に眩しかった。

 長い地下道を、地上に向けて歩きながら、ふと足元のタイルを見つめる。直線で直角に区切られた模様。進行方向へ伸びた一本の継ぎ目の上を、僕は慎重に歩いてみた。
 何色かは分からない、由紀や友人たちの道が、この黒く細い線の周辺に、今は寄り添いながら流れているのだろう。それはそのうち離れ、また交差したり、僕の終着駅までには二度と交差して来なかったりする。
 誰も自分の足下に敷かれた道を変えることは出来ない。しかし、その道の湾曲や凹凸を変更しているのは、何も知らない僕たちのこの手だ。ひとつ、またひとつと、日々の中で選択≠するたびに、足下の道のうねりは微妙な――時には大きな――変化を見せる。しかし、まだ踏まぬ地点がどれだけ変わろうと、踏んだ僕らはその時のそれが、前々から決まっていたものだとしか思えないから、時たま自分の持つ大きな権利について忘れてしまう。
 階段を力強く上がってみた。一段一段、地上に近付くごとに、僕は後ろになにかを捨てていった。剥がれ落ちていったのかもしれない。今日背負った重みの、核だけをしっかり記憶に留めて、僕は歩き続けるために身軽になった。

 地上に出た。風がぬる温(ぬる)くなっていた。夕暮れだ。
 アスファルトの側溝に、どこかの店からか撒かれた水が流れていた。僕の足下に近付くにつれて細くなる流れ。
(ああ、これも道みたいだ……)
 幅が広いうちは多くのほかの道と交わる可能性を持ち、また大抵実際に交わり、年を取るにつれて路は狭まる。そして――最期には独りだ。
 ふいに、白い棺に寄り添う大叔母の姿が、思考に浮かんだ。ぎりぎりまで独りにならなかった、そんな大叔父は素敵だと思った。

「遠く、か……」
 赤い太陽を直視して、僕は目を眇めた。光の中に、終着駅(おわり)を見つけられるかのように。




終わり


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