2001年12月9日(日)

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第五回 算数・数学むかし物語の旅 高木貞治ツアー1

高木貞治ツアー

 東京地区数学教育協議会の企画で行われている「算数・数学むかし物語の旅」に参加してきた。第五回の今回は「高木貞治ツアー」ということで、日本が生んだ世界的数学者の高木貞治の生地を訪れた。

 高木貞治といえば「解析概論」の著者として、大学で数学を学んだ人たちにとってはよく知られていると思う。私が高校3年のとき、書店で「微積分入門」田村二郎著(岩波書店)という本を立ち読みをしたのだが、その最後に、「これから本格的に数学を学ぶなら・・・」と紹介されていた。さっそくこの「解析概論」高木貞治著(岩波書店)を買って読み始めたが、かなり苦労してことを覚えている。「近世数学史談」もたぶんこのころ読んだと思う。朝目覚める刹那に正17角形の作図を思いついたガウスの話が冒頭にあり、その語り口の独特な雰囲気が印象的であった。その後大学に入ってからは、「数の概念」という本にもお世話になった。大学に入って、書店に並ぶ「The collected papers of Teiji Takagi」という本を見て、なにやら難しそうで読んでみようとも思わず、肝心の高木先生の業績の「類体論」へは、とうとう近づくこともなく今にいたっている。「類体論」とはどんな理論なのかも分からないけれども、世界中の数学者に尊敬され活躍した大数学者のアルティンとかヴェイユとかという人たちと同格の大数学者らしいということは、数学を勉強していた仲間が言っていた。

 というわけで、「高木貞治」の本当に偉大なところは良く分からないけれど、その著書にはけっこうお世話になっていて、有名な日本の世界的な数学者だという程度の認識の低さでこのツアーに参加することになった。でも本当に参加したいと思ったのは、このツアーにあつまる人たちと交流することが目的であったのかもしれない。たぶんこの旅の企画自体が「高木貞治」をだしにして、仲間と楽しく旅行することだったのかもしれない。



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いざ高木貞治のふるさとへ

 12月8日(土)朝8時50分、東京駅銀の鈴広場集合。一番遠くからの参加は九州の宮崎からとか。私はみちのく岩手からの参加で、前日の夜中に盛岡を発つ夜行バスで上京した。東京駅へ到着したのが朝の6時ごろ。東京駅の地下街にあるサウナに入って汗を流してのんびりと集合時間を待つ。


 東海道新幹線で名古屋に向かう。高木貞治の著書を片手に、学生時代の思い出を語ったりする。このホームページの記事をきっかけで知り合えた asimov さんからもらったルーローの四面体を持っていってみんなに紹介した。しばらくルーローの四面体をめぐって話しに花が咲く。また、パソコンを取り出したりと楽しく話をしながらあっというまに名古屋に到着する。


 名古屋からはバスにのり、高木貞治のふるさと岐阜県本巣郡糸貫町へと向かう。車中では、参加者限定の冊子「数学教育家としての高木貞治」という資料集が配布された。この資料集は60ページにもなるもので、高木貞治の生涯から高木貞治が育った時代の数学教育、高木貞治の数学教育への貢献について、詳細に説明されている。そして名古屋から糸貫町につくまでのバスの車中では、この資料集を作成した上垣渉先生による講演があった。糸貫町役場につくと生涯教育課社会教育主事の大澤さんが出迎えてくれてさっそく糸貫町福祉センターの中にある「高木貞治博士記念室」に案内される。そこで所蔵の資料を見てから、奥さんが高木貞治の親戚にあたるという高橋さんのお話をお聞きする。



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小さい頃の貞治

 高木貞治は1875年(明治8年)4月21日、岐阜県大野郡数屋村(現 本巣郡糸貫町数屋557番地)に生まれた。高木の家は代々その土地で一帯の井水を司り指導的な立場にたつような名家であったようだ。貞治の母 つね は、実は木野村光蔵の後妻として嫁いだ。光蔵は役所につとめ頭は優秀であったそうだ。母つねも記憶力がよく信心深かったという。高木貞治はこの木野村光蔵とつねの間に生まれたのだが、つねの兄の高木勘助に男の子がいなかったために、勘助は貞治を実子として役場に届けたのだそうだ。

 左の写真は高木貞治の両親である。この父勘助の父も勘助、祖父も勘助という名前なのだそうだ。高木貞治の父勘助の祖父の勘助は、当時この村が無医村であったころに、野川という医者を自分の家の敷地の一部に家を建てて迎えた。この孫野川湘東先生は医者であり、漢詩や南画にすぐれた人で、隣人でもあり貞治の父勘助と親しかったようだ。貞治はこの野川湘東先生のもとでその才能を開花していくのである。

 野川湘東先生には田鶴さんという娘がいて、貞治と同じ歳であったが、学校で貞治と1番を争っていたという。貞治の父勘助は非常に厳格な人だったらしく、貞治の成績が2番となると勘助は思い机を背負わせて家の外に立たせたともいわれている。

 貞治は近くの一色学校(現一色小学校)に通った。現在その学校のあった場所は公園になっている。小さな公園の中に大きなイチョウの木があった。このイチョウの木は貞治が子どもの頃から一色学校の校庭にあったのだそうだ。このイチョウは高木貞治の小学生時代を見つめていたのであろう。

 貞治は小学校のころから勉強が楽しく、他の友達と校庭で遊ぶということもなかったのだそうだ。田鶴さんの方はおてんばで明るく元気に遊んで、それでいて貞治と成績を競ったというのだから素晴らしい。後に高木家は野川家に貞治と田鶴の縁組を申し入れたのだそうだが、断られたということである。

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