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「取れたて」創刊10周年記念

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取れたてと私

平成3年卒 あきら1



「取れたて」との出会い、高校時代

「『数学同好会』というのをやっているんだけど、入ってみない?」
私が宮本先生から声をかけられたのは、高校2年の夏のことだった。

 その頃の私は、ホームステイを終えてアメリカから帰って来たばかりで、人と違うことをしたという自信にあふれてはいたものの、元の生活に再び溶け込み、周囲についていくのに精一杯だった。部活でも、吹奏楽部が高文祭(全国高校総合文化祭)の遠征やサマーコンサートの本番を控えており、勉強そっちのけで忙しい毎日が続いていた。

 私は元来、せっせと手を動かして問題を解いたり、一つのことをじっと考え続けたりしているのはどちらかというと苦手なものぐさで、学校の数学の成績は並、中でも演習問題を解くのが大嫌いだったが、好奇心、特に科学に対する興味は人一倍あったと思う。
「この数学同好会も、何をやっているんだかよくわからないけど、何だか面白そうだ。」
私は、先生が「じゃ、これ、入会金代わりね」と言って差し出した、モノグラフの「初等幾何」の本 [8] を手にしていた。

 私が入会したとき、会にいたメンバーは、先生と、同級生が2人(2人とも同じクラスだった)、あと、先生が担任していたクラスの1年生がいたと思う。夏の間は部活やら何やらで皆忙しかったが、10月頃から、放課後に数学演習室(自分が在学した間、授業では一度も使ったことがない、不思議な部屋だった)に集まって、問題を解いていった。最初は、前述のモノグラフの本で、初等幾何の問題に取り組んだ。それから「数学発想ゼミナール」 [9] の問題を解いていった。(この本のいくつかの問題はこの時間内に解けず、大学に入ってから友人達と解いたりもした。)

 問題が解けたら皆の前で答えを発表し、皆が質問をしたりツッコミを入れて間違いを直したりする。わからない所があると皆で考える。ずっと後になってわかったのだが、これはまさにセミナーそのものだったのだ。このときのセミナーが大学のセミナーと違っていたのは、各自好きなネタを好きなだけ話すことができ、話が途中で終わってしまっても続きは皆で考えればいいとか、比較的自由に発表できた点だろうか。毎回、熱い(楽しい)議論は、秋の短い日が暮れて外が真っ暗になってからも続いた。私は列車通学だったので、間に合う時間ギリギリまで参加し、それから全速力で自転車のペダルを漕いで駅へ向かったが、途中で議論を抜けなければならなかったのは残念だった。

 冬になると、積分論 [3] が始まった。先生は開口一番「これからやる積分では、微分のことは忘れよう。」とおっしゃったので、びっくりしてしまった。先生は、区分求積(和の極限)を用いた定積分の原理を一通り黒板に書きながら説明したあと、「…で、和の記号(シグマ)の上と下がみょ〜んと伸びて積分の記号(インテグラル)になったんだよ。」と締めくくった。私は、えー!? ホントかいなー、と半信半疑で、とにかく積分の計算にとりかかることにした。

 私達は、多項式やら三角関数やらいろいろな関数の定積分を、微分を使わずに区分求積で求めていった。最初はおっかなびっくりだった計算も、いろいろな関数の積分を計算してみるたびに面白さが増す。何と言っても、授業で習った積分と全然違う計算をやっているのに、同じ結果が出るのが驚きだ。しかも、授業でやる問題集のように略解がついているわけでもなく、自分一人を頼りにしながらの計算は、まるで真っ暗闇の森の中を、手元の小枝や雑草をかき分けかき分け、前へ進む探検のようだった。そして、長い計算の後、正解に辿り着いた時に覚えた、森がパッと開けてさんさんと陽の光が降り注ぐ草原に出た時のような感覚、ちょうど、宮沢賢治の「どんぐりと山猫」 [5] で一郎が辿り着いた「きん黄金いろの草地」を見たような驚きと達成感は、今でも忘れられない。

 私は、あくる年の正月も、のんびりとこたつにあたりながら積分の計算を続けた。正月は家中のカレンダーを貼り替える。その時に、大抵、カレンダーの表紙をはがすので、家中にカレンダーの表紙があふれていた。私は、それらの表紙に片っ端から積分の計算を書いていった。こうして、正月明けには、何とも言えない満足感とともに、何巻かの変わった巻物が出来上がった。

 春は何をしたかよく覚えていない。夏は、あの「高田の定理」の証明を書いた論文 [2] を解読した。先生が、高校の海外派遣に同行して、イギリスに「割り算で微分法」のテキスト [6] を持って行くというので、英訳 [7] を手伝ったりもした。しかし、夏は相変わらず吹奏楽部等で忙しかったので、高田の定理も論文を読んで解説 [4] を書くのがやっとで、それ以上大したことも出来ず、気がついたら文化祭がやってきて、最初の「取れたて」[1] が世に出た、という感じだった。


大学での挫折と「取れたて」への復帰

 元々科学に興味を持ち、ついで中学時代からコンピュータに興味を持った私は、高校に入ると、自分の志望校を筑波大学の情報学類に定め、将来は人工知能のエキスパートになるんだと、単なる夢ではあったが意気込んでいた。

 ところが、高校3年になる春に、私は志望学部を工学部から理学部へと変えることになる。そのキッカケは、宮本先生の「将来コンピュータをやるんだったら数学を勉強しておくといいよ」という一言だった。こうして、私は第1志望を筑波大学の情報学類から自然学類に鞍替えし、翌春、幸いにも入試に合格して筑波大学自然学類に入学した(ついでに、宮本先生の後輩になった)。

 私は、大学に入ってからも勉強嫌いで、高校までのように苦しまぎれの暗記で試験をくぐり抜けようとした。1年のうちはこの方法でも何とかまともな成績を残すことができた。しかし、2年になり、より抽象的な群論や集合論の授業が始まると、全く歯が立たなくなった。

 数学の理論を構築することは、よく「建物を建てること」に例えられる。まず始めに「定義」という名の土台を造り、その上に数学的な演繹や他の数学の知識といった道具を使って、柱を立て、壁を組み、屋根を葺いていく。建物の新しい部分はすべて、それまでに組み上がった部分と、それまでに手にした道具のみから造らなければならない。そして、次の部分を組むために、今自分が手にしている道具をいかに使いこなすか---そこが数学における頭の使いどころだ。

 ところが、私は、それまで頭を使うという経験をほとんどしてこなかったもので、どうやったら数学がわかるようになるかがさっぱりわからず、途方に暮れてしまった。(その上、この時は、高校での「取れたて」の経験を結びつけることもできず、今から思うとかなり遠回りしてしまったと思う。)成績も低空飛行が続いた。おまけに、私は中学の時に吹奏楽部でホルンを始め、筑波に来てからは社会人のオーケストラに入って続けていたのだが、そのホルンも、自分のレベルの低さを痛いほど感じていた。私は、どこを向いてもどんよりと垂れ込めた雲しか目に入らず、お先真っ暗で、すっかり自信をなくしてしまった。

 自然学類では、私の在籍当時、3年に進むときに、数学、物理、化学、地球科学の4専攻に分かれることになっていた。当初から数学を学ぼうとして大学に入った私は、化学や地球科学にはずいぶんご無沙汰していたし、物理でも落ちこぼれてしまったので、専攻として行く先は数学しかなかった。それなのに、こんな調子で数学専攻に進んで、果たしてこの先自分はやっていけるのだろうか? そう思うと、不安で頭がいっぱいになって眠れなかった。3年の授業が始まる前の晩のことである。

 翌日から、私は、人が変わったように(少なくとも自分自身はそう思った)勉強を始めた。好きなコンピュータもぱったりとやめた。勉強のしかたがわからなかったら、わかるようになるまでひたすら問題を解き続けるしかない。そう思った私は、このとき初めて、帰省する新幹線に授業の演習問題を持ち込んで、郷里に着くまで延々と問題を考え続けた。こうした努力の甲斐があってか、1学期の終わり頃には、今学んでいる数学の、少なくともその内容は段々とわかるようになってきた。数学が面白いのか、それともああでもない、こうでもないと考えている自分が面白いのか、よくわからなかったが、とにかく数学を考えるのが2、3か月前に比べて苦痛ではなくなってきた。

 もう1つ、数学が楽しくなってきたきっかけに、友人達の存在があった。3年になってからよく話すようになった友達の1人は、気が向いたときにしか授業に姿を現わさなかったが、数学の能力は私達の学年でトップクラスで、授業でやっている数学のことは大体すでに勉強してしまっていて、普段は自分の好きな数学の勉強をしているようだった。

 彼は、折に触れて、自分は今こんな理論を勉強していて、こういうところが面白いという話や、大数学者達の数々のエピソードなどを話してくれた。私は、それまで自分とは縁の遠い存在だと思っていた数学のいろいろな定理が身近なものに感じられるようになり、それまで自分には澄ました顔しか見せなかった大数学者達が、笑ったり、怒ったり、泣いたり、おどけたりする顔が見えてきたような気がした。

 私には、次のことがわかってきた。第一に、数学は、学び方を身につければ、別に授業に出なくても、勉強したいときに自分で勉強できること。第二に、自分の頭で考えたり自分の手を動かしたりして得たものは身についてずっと忘れないし、逆に授業に出ても自分の頭と手を使わなければ、授業で聞いたことは身につかず、授業に出た意味がなくなること。第三に、数学という学問は、他の学問同様、その理論を著した書物のみでは成立し得ず、数学を生み、育んできた数学者達はもちろんのこと、彼らをとり巻く人々、彼らが活躍した当時の社会情勢、ひいては文化の営みから生まれ、発展してきた、きわめて人間臭い一面を持ったものだということ。数学は「文化」なのだ。

 こうして、私は、大学3年の間に何とか数学の成績を持ち直し、分野によって多少の得意、不得意はあったにせよ、数学と気楽に付き合うことができるようになった。そして、翌々年の春に大学院に入学した私は、今に至る数学との長いつき合いを続けることとなった。


そして続く「取れたて」の道

 私が大学院に入るときに(正確には学部4年の卒業研究の時から)自分の研究分野として選んだのが「数式処理」である。

 多項式の因数分解は、高校の時に大抵の人が習うはずだ。 例えば、x2−3x+2が(x−1)(x−2) と分解されるというものである。数式処理は、このような数学の計算をコンピュータに計算させるための理論を構成する、数学の一分野である。

 数式処理は、数学の中でも最も新しい分野の一つであり、従来の数学では考える必要のなかったことも考えなければならない。それを説明するために、まず、数式処理の特徴を、手計算と比較しながら述べよう。

 数式処理は、手計算と比較して、いくつかの点で異なる。第一に、数式処理は、とても手計算では手に負えないような計算を扱う。因数分解にしても、自分が高校のときに出くわした式はせいぜい 3 次か 4 次くらいの式だったと思う。一方、数式処理では、数十次、数百次の多項式---1つの式がノート何ページにもわたるような巨大な式の因数分解を、一瞬のうちにやってしまうのである。

 第二に、数式処理は、経験や勘に頼る手計算とは異なり、常に決められた手順で計算を行う。手計算は、経験や勘に頼る部分が少なくない。因数分解のときも、ある時は2次方程式の解の公式を使い、またある時は因数定理を使うという具合である。一方、コンピュータは普通、経験や勘というものを持ち合わせていない。数式処理では、因数分解も含めたいろいろな計算に必要なすべての手順を決め、それらをコンピュータのプログラムに書き、そのプログラムをコンピュータ上で実行させることによって、計算を行うのである。

 以上が手計算と比較した数式処理の特徴である。さて、従来の数学では考えなくてもよかったのに、数式処理で考える必要が生まれたこととはいったい何か? それは、数学的に正しい理論も、数式処理では「使いものにならない」場合があるということである。

 数式処理では、計算に必要な手順を、最終的にコンピュータのプログラムに書き、コンピュータ上で実行する。従来の数学的な考え方では、数学的に「正しい」プログラムを書けさえすればそれでよかった。そのプログラムを実行することにより、計算時間がどの位かかるか、あるいはメモリをどの位消費するのか等、考える必要はなかった。

 たしかに、単純に作った因数分解のプログラムでも、今時のパソコンで動かせば、高校で出てくるような因数分解の問題をすらすら解いてくれることだろう。

 しかし、最先端の自然科学や工学の計算で解かなければならないような、数十次、数百次の因数分解を同じプログラムで計算させようとすると、プログラムを実行させても答えが出てこないとか、しばらく待つとプログラムが止まってしまうといったことが起こる。単純に作ったプログラムを実行すると、計算効率が悪いためにいつまで経っても計算が終わらなかったり、あっという間にメモリを使い果たして計算不能に陥ったりということがいくらでも起こり得るのだ。

 数式処理では、このような問題に対処するため、数学や情報科学の理論を駆使して、数学的に正しいだけでなく、「より大きな問題を、より速く、より精度よく」計算できる理論を構築していった。そして、そのような計算をするプログラムを作り、それらをコンピュータ上で動かし、実験を繰り返しながら、より大きな問題をより速く解いていったのである。

 このように、数式処理は、従来の数学には見られなかった「効率」だの「プログラム」だの「実験」だのといった、新しい要素が盛りだくさんの新しい数学の分野である。私が数式処理を自分の研究分野として選んだのには「取れたて」が及ぼしてきた影響が少なくないと思う。

 私は、高校の頃から、そして今もそうであるが、決して数学が飛びぬけて出来た訳ではない。ただ、学校の授業のように与えられた数学ではなく、自ら興味を持って取り組んだ数学が面白かったのだ。研究の道筋は必ずしも楽なものではないが、それでも、これまで誰も解いたことのない問題が解けそうな時、新しい定理の証明がひらめきそうな時、新しい理論を基に作ったプログラムが期待通りに動いた時---そんな時にワクワク、ドキドキする自分を見つめていると、あの「取れたて」の頃に、定積分の新しい計算に取り組んでいた時の自分を思い出す。今でも、あの頃と変わらない自分がいる。そして、「取れたて」の時のように、未知のもの、新しいものに対する好奇心が、自分を数式処理の道へと導いていったような気もする。

 早いもので、高校を卒業して今年で10年になる。この長かったようで短かったような時間の中で、形あるものとして自分が残せたものはそれ程多くはなかったが、「取れたて」で得た結果はその少ないものの一つだった。そして、「取れたて」を通して得た経験は、それ以降の私に少なからぬ影響を与えてきたし、今も、そしてこれからも、自分の中で息づいていくことと思う。

 「取れたて」のことを思い出すと、まだまだ話は尽きないが、とりあえずこの辺で筆を置くこととする。その前に、「取れたて」をきっかけとして私を数学の道へ導いて下さった宮本次郎先生に、心から感謝の意を表したい。(随分御無沙汰していますが、そのうちきっと博士論文を手土産に伺います。)それから、「取れたて」でお世話になった多くの先輩方、友人達にも感謝したい。この文章を最後まで読んで下さった方々には「取れたて」のような経験が一人の人間を数学の世界へと導いていった、そんな一つのケースとして読みとっていただければ幸いである。

 最後に、現在活躍中の「取れたて」の後輩諸君。今、君達が手にしたばかりの「取れたて」の成果、そして、それを初めて手にしたときの君たちの心の輝きを、これからもずっと大切にしてほしい。なぜなら、どんなに小さな成果であっても、それは君達自身がつかんだ、まさに「取れたて」そのものであり、それは他の何物にも代えることのできない、永久不変な数学の真理なのだから。

[1] 盛岡第一高等学校少年少女数学愛好会 編, とれたての定理です, 盛岡第一高等学校少年少女数学愛好会, 1990.

[2] Tominosuke Otsuki and Kazuo Masuda, Certain theorems on pentagons, SUT Journal of Mathematics, 26 (1990), No.~1, 11--54.

[3]工藤善也, 丹沢一成, 照井章, 宮本次郎, 我々の積分論,[1] , 35--46.

[4] 照井章, 丹沢一成, 高田の定理,[1], 1--12.

[5] 宮沢賢治, どんぐりと山猫, 【新】校本宮澤賢治全集, 第12巻 童話V・劇・その他 本文篇, 筑摩書房, 1995, 9--18.

[6] 宮本次郎, 割り算で微分法, 平成元年度夏期休業課題テキスト, 盛岡第一高等学校, 1989.

[7] Jiro Miyamoto, Differentiation by Division, preprint, Morioka Dai-ichi Senior High School, 1990. Revised, 1991.

[8] 矢野健太郎 監修, 清宮俊雄 著, 幾何学---発見的研究法---改訂版), モノグラフ 26, 科学新興社, 1988.

[9] ローレン・C・ラーソン 著, 秋山仁, 飯田博和 訳, 数学発想ゼミナール (1, 2), シュプリンガー・フェアラーク東京, 1986.



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