会津蔵王夏草紀行


<序>
 7月の初旬。職場で昼食を摂っていると、普段は現れない上司がふらっとやってきた。所属長なので、部署では一番偉い人である
長「ここへ来たという事は?」
うきは「もっちゃもっちゃ・・・・・・」
 今日は人事委員会の日。つまり、人事異動会議の日である
うきは「もっちゃもっちゃ・・・・・・どこすか?」
 異動の口頭辞令である
 異動にかこつけて、六日間の早めの夏休みをとることにした。ざまぁみろwww
 思い立ったのが出立数日前のことなので、宿だけ確保して車で行くことにする。おのずとそう遠くはないところになるわけだが、東北方面に絞って宮城の山中に宿を確保したのは前々日。仕事明けで車を軽く整備して、いざお出掛けである

<2017/7/10>

 9:00に高速に乗り、圏央道を北へ。久喜白岡JCTで東北道に入る。平日なので順調だ

 上河内SAでファーストおりんりん

 レモン牛乳ソフトで涼をとる。今日も酷暑だ
 給油をして更に北上。宇都宮を過ぎると途端に交通量が経る。那須高原を越えて福島に入ってしばらく、白河ICでおりんりん。国道4号を東へ少し走ると白河の街へ

 駐車場に入れて、城址である城山公園内へと
 歴史資料館「集古苑」横を奥へ。資料館は本日月曜は休館日だった

 この辺りも甚大な被害があったのだろう。震災後6年の月日を経てもまだ修復工事が行われている

 石垣のつくり

 こんな風に積んでゆく。今はパワーショベルやクレーンでこうした土木作業が行えるから、
 「ふぅ〜ん」で済むのだが、これが戦国時代、江戸時代・・・・・・石垣の造成なんかそれ以上昔から人力で行われているわけだからその技量に頭が下がる
 遥か昔に、これで荷重を支え、この上にまた大きな建物を作っても長い年月壊れないという保障を考え出した人は凄いよな
 
 あらためて、小峰城址へ登城。広い範囲で工事がされていて、フェンスが目障りなのでフェンスの支障のない角度で撮影してみた
 白河小峰城は東北地方には珍しい、総石垣造の平山城で、若松城、盛岡城と共に東北三名城と謳われている。南北朝時代の興国元年(1340年)に結城親朝が小峰ヶ丘に築城し、小峰城と名付けたのが始まりである。戦国時代を経て結城氏から蒲生氏、上杉氏と城主は代わるが、寛永4年(1627年)に丹羽長重が移ると城郭の大改革が行われ、現在残る遺構の規模にまで整備がなされた
 しかし、その後の幕末、戊辰戦争のおりには周辺は戦場となり城郭も悉くが焼失してしまった
 というところで、とりあえず、あの櫓まで行こう

 ルートが制限されている中、本丸まで登ってきた

 丁度、のぼりの貨物が通過。EH500牽引の石油輸送列車。郡山発川崎貨物行の臨時石油返空8072レのようだ
 EH500牽引の貨物なんか久々に見たな♪

 石段を上がってきて到達する広場が本丸御殿跡
 遺構は特にない。戊辰戦争のおり、小峰城周辺も戦火に巻き込まれたのでその折に破壊、焼失しているのだろうか

 井戸は残ってたw

 本丸の広場から更に一段高いところにあるのは天守閣ではなく三重櫓

 復元櫓ながら、小峰城址としてはシンボル的な建物なので、実質天守に相当すると言って過言ではなかろう
 他の多くの城の復元、復興天守が鉄筋コンクリート造りであるのに対して、小峰城址のそれは木造であることが特筆される。復元は1991年に行われており、「木造復元天守」では最初と言われている掛川城よりも三年先んじている
 復元するにあたって、木材は戊辰戦争で激戦地であった松並稲荷山(小峰城より南方1.5キロ程にある)の杉材を使用しており、当時の弾痕がそのまま柱に残っているのが確認できる
 保存、修復募金にワンコイン投下して中へ。木造で耐荷重制限があるのか、2階以上へは人数制限があるとのこと。もっとも、今日は平日なので人気は殆ど無いが

 石落とし

 石落としの餌食です

 中はこんな感じ。木造なので柱がたくさん張り巡らされている

 これが件の弾痕。ここだけでなく床や柱、梁に幾つか散見された

 階段ももちろん、木製。ここからは人数制限あり

 てっぺんまで登ってきた。風が通り抜けて涼しい。二の丸の広場越しに白河駅を

 こちらは東側

 白河駅のアップ。電車はいない・・・・・・

 白河中央スマートICより高速へ。再び、東北道を北上する
 白河近辺では食料を確保しなかったので

 鏡石PAで小休止してお昼御飯。ここは良く止るw

 軒下に燕がいた
 郡山、福島を順調に通過。越河の坂を越えて白石へ。白石ICでおりんりん。国道4号線を少し戻り、福岡蔵本を左折して県道254号線へ入る。丘陵地帯を登ってゆく。周囲は山と、緑の水田。気分は良い♪

 途中の分岐で紫陽花の群生地を発見したので車停めて撮影

 う〜ん・・・・・・あまり・・・・・・・かな
 ここの分岐から先、川原子ダム方面に向かう峠道を「川原子あじさいロード」と銘打って、5000株あまりの紫陽花を植栽している
 ゆっくりと峠道を登ってゆくと、左右に咲き誇る紫陽花を楽しむことが出来る

 目的地に到着!そう、何かと噂の「蔵王キツネ村」
 SNSなんかでは年中キツネもふもふの画像が流れてくるあの有名スポットだ!一度来てみたかった!!

 キツネ村に来たはず・・・・・・ゴリラがいるとは聞いてないが・・・・・・・
 結構重いんだろうね。おまたのところにつっかえ棒がw
 諸注意を聞いて早速入場。ケモノくっさwwwwww

 もふきつね。暑そう・・・・・・

 キツネ以外にもいろいろ小動物がいる

 へっこへっこしてる
 やはり冬の方がもっこりしてるんだろうな

 山中とはいえ真夏。木陰でみんなぐったりだ

 しかしたくさんいるね・・・・・・

 真っ白い!!

 真ん中にはお稲荷さんも鎮座

 三時のおやつだろうか。飼育員さんがエサの大袋を持って現れたら、それまでぐったりしていたキツネたちがいきなりハッスル始めた
 ギャン鳴きである!きちんとエサを貰っているのであろう園内でもこんなに殺気立つとは、恐ろしいw

 うさー

 完全にダレている北極ギツネ

 本日の気温は30℃超。寒暖差100℃に届こうかと言う環境では暑すぎるよな・・・・・・
 期待したほどは触れ合えなかったが、まあ満足。こんなにたくさんのキツネを見たのは初めてだしな



 帰りにちょっと寄り道。あじさいロードの途中に紫陽花の群生地を見かけていたので、停めてみた

 紫陽花とSA22C

 小山が紫陽花畑みたくなっている

 もっこり綺麗

 小さなお社が鎮座していた。東北の田舎って感じね

 きつね村から本日の宿までは直ぐ。車で20分と掛からない
 古くからある温泉場、鎌先温泉に今日は宿泊する。県道からちょっと外れた谷間に温泉宿が数軒密集した小さな温泉場。建物が密集しているので各旅館に駐車場は無く、県道沿いの共同駐車場に車を停めて各旅館に赴くスタイル

 風格ある建物の最上屋さん。庭木の剪定中

 鎌先温泉の街路は狭い

 もっと狭いところに入ってゆく。なんかわくわくするね。こうゆう路地に入ってゆくと

 旅館の前まできたらサビ猫に出会った。凄く馴れててスリスリしてくる

 本日の宿は木村屋旅館さん。にゃんこはここでエサを貰っているようだ

 2階の一間に通された。谷間に温泉宿が犇き合っている。こうゆう温泉場って風情あって好き♪

 早速一風呂!!
 鎌先温泉は正長元年(1428年)に開湯した温泉場で源泉温度39℃から47℃の塩化物泉。傷に効く薬湯として有名で、かつては湯治客で賑わった。現在では1軒のみ湯治を受け入れている。営業している旅館は5軒。ここ木村屋さんは濁り湯で有名だ
 外の露天が濁りだ。ここの泉質はナトリウム・塩化物硫酸塩泉ですこし鉄分を含んでいるようだ。露天に入ると沈殿した物質でぬるりとくる。浴槽を形作る石は茶褐色になり鉄分が含まれていることが窺い知れる
 源泉は37.7度とやや温めだが、沸かしなおして温度を上げている。そのせいか、最初は結構暑い。冬場にきたら肌にビンビンにきそうw

 食事も摂って、夜の帳
 夏場の小さな温泉は旅行客も少なく、静かで平穏でホント落ち着く・・・・・・


<7/11>


 おはようございます!今日も良い天気!!数日前まで天気予報は微妙だったのだが、ここへ来て連日の快晴、猛暑でござる
 朝食を摂っていると、番頭さんに抱えられてにゃんこが退場していった。昨日のサビではないにゃんこだ

 食事後に探したら、お土産売店のかごに下に丸くなっていた。ナデナデナデナデ・・・・・・
 ここもにゃんこのいる旅館だった!!
(まぁ、そんな話聞いてたから、この旅館選んだんだけどな)

 チェックアウト。お世話になりました

 看板の裏で涼む昨日のサビ柄ニャンコ。さよなら元気でな〜♪

 温泉街の一番奥まったところにある湯主一條さん

 右側は国の登録有形文化財に指定された木造の本館
 大正末期から昭和初期にかけて造られた本館は4階建てで、4階までの通し柱に釘を一本も使わずに当時の宮大工が仕上げたと言われている。今は宿泊は出来ず、宿泊に関しては向かいの新館のみだそうだ。では、本館は?というと、夕食会場などとして利用されている
 古い建物を保存する傍ら、通常宿泊に関してはグレードの高い部屋と食事を提供する格式高いお宿が一條さんなんだな

 電車が来るわけではない鎌先温泉駅
 裏側だが、バスの待合室である。白石市民バスが白石駅との間を結んでいる。大体、2時間に1本くらいあるようだ
 かつては宮城交通の路線バスが走っていた。「駅」を名乗っているのはかつて国鉄線への連絡乗車券を発売していた名残である。交通網が脆弱で、かつ自動車が普及していない公共交通が庶民の脚として重要だった時代には、国鉄の各駅から先の各地方への便を図るために地場の企業と国鉄が連携して旅客輸送に当たっていた
 国鉄が解体されてしまった現在はこうした連絡輸送は行われていないが、各地にその名残で「電車の来ない駅」が未だに存在している。こうした例は地方に限らず、関東でも神奈川中央交通の金目駅、豊田本郷駅等にいまだに見られる
 これらは特に「自動車駅」や「バス駅」と呼ばれたが、乗車券を発券するという業務を行うため、鉄道駅のような駅舎を備えている事が多かった

 鎌先温泉の市営共同駐車場。ここ以外にも第二駐車場が存在する。枠には各旅館の名称がついており、旅館利用者はそこに停めるという按配

 今日も白石ICから東北道。南に向かって走る。仙台までちょっと行けば直ぐだなあ・・・・・・なんて考えたが、予定通りに南へ。しかし、国見ICですぐに降りる
 七ヶ宿街道をちょっと走り、藤田病院入口からちょっと4号線。日渡交差点を左折して県道31号線をひた走る
 県道31号線の伊達崎橋を渡って右折。県道123号線をそのまま真っ直ぐ行くと保原の市街に入る
 一瞬国道349号線を走り、県道150線に入ると200mほどで、左に保原中央交流館が見えてくる。そのまま駐車場にイン。目の前には

 福島交通軌道線こと、飯坂東線の1116号車が保存されている

 2015年に保原ロータリークラブの手によって見事に修復された

 2年程度は経っているが、手入れされており非常に綺麗
 前面が少しRが付いており、前後左右ともに整った窓の大きさで非常にポロポーションの良い、いかにも感じな路面電車
 1953年に1115と共に日車で製造された。1115は近隣、霊山町のこども村に、1119が福島市の瀬上小学校内に保存されている

 軌道線の線路幅は通常電車の飯坂線、すなわち国鉄線と同じ1067mm軌間である
 路面電車というものはそもそも道路交通と共存しつつ運行されるので小型なのは定石なのだが、ここ福島の路面電車はもって生まれた道路幅の狭さから、極端に車体幅が狭い「馬面電車」然としていた
 軌道線は当初、蒸気運転の762mm軽便規格で開業したが、蒸気機関車の煤煙による火災事故があって後、近代化の為に電化、改軌が行われた。軌間は拡幅されたが、周辺道路はそのままだったため、大型電車の導入は阻まれ、廃止まで馬面、細面の電車が活躍することになった
 馬面電車と言えば岩手、花巻電鉄の

 デハ3が有名だが、この電車は軽便規格で幅1600mm
 対して、福島の電車は国鉄と同じ線路幅にも関わらず花巻と同程度であった。1116は正式図を見ると巾1676とある。なんだ花巻と殆ど同じだ。1960年、最後の新車となった2022、2023でやっと巾は1920mmになった。花巻は周辺の道路が整備され、もう少し大型の電車が走るようになったが、福島は車両の大きさに関しては廃止までそのままであった

 台車はブリル27BE1のコピー

 パンタ側。福島交通は貨物輸送も盛んで、近隣の名産品を福島や伊達駅まで運び、国鉄貨車に積み替えて出荷していた。当初は電動貨車が使用されていたが、晩年は旅客用の電車が貨車を牽くようになり、そのために路面電車では珍しい連結器が装備されている
 ナンバー下の白い四角い部分がそうで、軽便の車両のように朝顔形連結器が装備されていた。ただし、貨車への連結は長いドローバーによって行われ、連結器同士で直接繋がれる事は無い。軌道が狭隘で交差点など急曲線が随所にあり、長い連結棒を使用しないと車体同士が引っ掛かって牽引出来ないのだ

 飯坂東線の路線を現在の地図上に興してみた。福島駅前を出発し北上、長岡分岐点で伊達、湯野町方面と、保原、梁川、掛田へと向かった。
 長岡までは日中15分ごと。伊達方面、保原方面に30分毎。保原から先、掛田、梁川へは1時間毎の運転だったそうだ
 1966年に福島駅にあった国鉄連絡線が廃止され、これに伴い電動貨車も廃車になった。1967年に長岡の先にあった聖光学院前(かつての車庫前)から湯野町間が廃止され、長岡分岐点から伊達駅前までの旅客輸送も廃止された。路線は保原方面だけになったが、これも1971年に廃止となり、軌道線の歴史に終止符を打った
 飯坂東線は路面電車であったが、保原や掛田、梁川などの街を結ぶインターアーバン的な路線でもあった。地図を見て解るとおり、路面電車としてはかなりの長距離を走っており、最近まで存続していた名鉄の岐阜地区軌道線に似た性質のものであったであろう

 満足した!
 旧線路敷の街道を西へ。ちょっと給油し、かつて電車が走った伊達橋を左に見ながら国道4号バイパスへ。福島飯坂ICから再度、東北道へ

 郡山JCTから磐越道に入り、五百川PAで小休止。陽射しはあるけどちょっと涼しい
 会津若松ICで磐越道を降り、会津若松市内へ

 やってきたのは鶴ヶ城こと、会津若松城

 四半世紀ぶりくらいにやってきたぞ鶴ヶ城。小学生の頃の真冬に来て以来だな。2011年の夏に来たときは鶴ヶ城には来なかったしな

 立派な天守閣。いかにも「お城」って感じ
 戊辰戦争内、会津戦争の戦火により傷ついた鶴ヶ城天守閣は明治期に陸軍資産となり、解体された。現在ある天守は昭和40年に鉄筋コンクリートで外観復元されたものだ

 老人団体に混じって天守閣に登った。天守閣に登らないと、その先の売店、そこにある百名城スタンプを押せないのだ・・・・・・
 良い眺めだ。こちらは南の方。風も涼しい

 戊辰戦争。1868年勃発なので、来年で150年なんだな

 その悲劇の舞台となった飯盛山方面。飯盛山は戊辰戦争で戦った会津藩の青年部隊、白虎隊隊士が自刃した地である
 ここから良く見えるという事は、飯盛山からもお城はよく見えたであろう。天守閣に上る火の手で鶴ヶ城落城を察知し、白虎隊は自刃したという。もっとも、この時点では天守閣に火の手は及んでおらず、城下の火災が天守のそれであると誤認したとの説が有力である。天守そのものは損壊したが、会津若松での戦いでは落城せず、官軍に開城することで戦争は終結に至った

 西側

 じぐざぐしている

 上写真のジグザグしているところの門から天守閣を見る
 平日にも関わらず、鶴が城は観光客でいっぱいだった

 高速で帰れば簡単だけど、面白くないので国道118号を延々と南下してゆくことに決めた
 若松の街を抜けて、15分程度、上三依郵便局の前を右折。小道を奥へ進むと駅が見えてくる。会津鉄道芦ノ牧温泉駅である

 この山郷の小駅にちょっと立ち寄り。会津鉄道の小さな交換駅だ。ここから芦ノ牧温泉そのものは少し距離があり、国道を南へバスで15分ほど掛かる

 会津鉄道は国鉄の地方交通線、会津線だった。国鉄末期、第二次特定地方交通線として整理の対象になったが地元出資の第三セクターとして生きながらえた
 会津線時代、ここは上三寄(かみみより)と名乗った。隣の門田は存在しているが、門田と芦ノ牧温泉の間には新駅のあまや駅が出来ている。一方の桑原駅は現在芦ノ牧温泉南駅に改称。間にあった信号場から仮乗降場、駅へと昇格した船子は大川ダム公園駅になった

 丸いポストと一緒に旧駅名標が保存されている

 陽射しを避けて駅舎へ。「ねこが働く駅」
 ねこ駅長はいずこ?

 会津鉄道のアテンダント、鉄道むすめの大川まあやと猫駅長らぶ
 らぶは芦ノ牧温泉駅の2代目猫駅長。今日は暑さの為に駅務室のケージ内でお休み。写真撮影は出来なったよ(泣
 2008年。2000年頃からこの駅に住み着いていた猫、「ばす」が名誉駅長として就任した。以来、芦ノ牧温泉の駅長として執務していたが、高齢のため、2014年にアメリカンカールの「らぶ」にその任を譲り渡した。ばすは2016年に老衰のために息を引き取り、以降らぶがこの駅を守っている

 駅前ロータリーの片隅には開業25周年を記念して建立された会津鉄道神社があるが、中には猫駅長の写真がたくさんで、どちらかと言うと猫神社である

 側線に押し込まれ保存されているAT−300形AT−301

 旧国鉄キハ30 18で1996年にJR東日本高崎運転所で廃車された同車を新潟トランシスでトロッコ車両として改造したもの。日本初の自走式トロッコ車両として1999年に再デビューしたが約10年使用された2009年に後継のAT−350形と入換で廃車され、芦ノ牧温泉に保存された。現在は車内はギャラリーとして公開されているそうだ

 118号線は湯野上温泉手前で121号線に変わり、118号は左へ白河方面へと別れてゆく。こちらは南下したいのでこの先121号線へと。田島の町を越える

 会津鉄道の特徴的なアーチのある交差点を左、日光宇都宮方面へ。真っ直ぐ行くと桧枝岐の方に行く
 湯西川、川治、鬼怒川を越えて今市へ

 ついていっちゃダメ!!!
 今市ICから日光宇都宮道路。宇都宮JCTから東北道に戻る

 16時をまわった大谷で遅い昼食

 佐野SAで最後の給油。家までは1時間半位かな?

 了

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