紀の国周遊紀行


<序:2018年某日>

 ちょうど20年前の3月、高校を卒業し翌月より仙台の専門学校に進学する予定だった私は、春休みの数日を使って紀伊半島一周の計画を立案した
 3月中にバイトで貯めた資金で大阪からの帰りの航空便を手配、新宮と京都に宿の予約をしたのち、青春18切符だけを購入して旅に出た
 和歌山県に立ち入ったことが無かった私にとって、当時の紀伊半島はまさしく未知の領域だった・・・・・・
 当時の行程の自筆紀行文を発見したので、先日取り込んだポジと共に当時の紀行を再現してみたい

<1998/3/30>

 数日前に立川駅のみどりの窓口で問い合わせた「ムーンライトながら」の指定券入手には失敗しており、この日、21時過ぎにうきはは品川駅の臨時ホームに立った。(当時は7〜10番線が臨時ホームだった)
 現在では多客時の臨時列車となってしまったムーンライトながらだが、2009年3月までは上下列車とも毎日運転の定期列車だった。もともと繁忙期には混雑の激しい列車だったが、それまで急行東海と共通運用のグリーン車付165系11連から、特急形ながらモノクラスの373系9連となった1996年3月以降は繁忙期の混雑に拍車がかかり、繁忙期には毎シーズン定期列車の前後を走る臨時便が設定された
 この臨時便は定期列車が特急形に変更となり、名称も「ムーンライトながら」と改められた後も「臨時大垣夜行」「大垣夜行救済臨」等と呼ばれ続けた。ほかにも同様の臨時続行便を運行する夜行列車はあったが、「救済臨」といえばこのムーンライトながらの臨時便のことを指していた
 そのような列車がそれこそ18切符シーズンには必ず運行されていて、こちらは全車自由席、並べば座れる列車だったので、うきはもさして悲観せず旅行当日を迎えた
 これよりさらに数年前となると、場合によっては昼過ぎから並ばないと好みの席を取れないなんて話もあったが、この頃には単身で旅行するなら21時過ぎ、遅くとも発車1時間前程度には来ていれば概ね好きな席を選べたようである。事実、私も難なく車両中ほどの左進行方向向きの窓側に腰を落ち着けることが出来た
 23:25ころ、車両基地より列車が回送されてきた。列車は噂どおりの国鉄急行形、しかし165系と言われていたその実態はかつての修学旅行用電車167系のなれの果てであった。この日の列車は田町区の167系4+4の8連。車内は全車禁煙だったが、波動輸送用の車両のためか窓際テーブル下には銀色の灰皿が付いていた。(しめた!と思ってタバコに火を点けた瞬間に禁煙放送が流れてあわてて消した。年齢は気にするなまぁ、若気の至りだw)
 このころ、田町区には167系4連9本が在籍しており波動輸送に活躍してた。H11〜19までの編成番号が振られていたが、12〜18までの7本はアイボリーにオレンジ、赤、裾に緑帯のアコモ改善車で、湘南色車はH11と19だけだった。アコモ車はリクライニングシートに換装されているなど収容力に劣るため、救済臨にはBOXシートのままのH11+19が主に用いられていたようだ。このうち、H11編成はトップナンバー編成なのだが、1982年伊豆急川奈駅での脱線事故で下田方の先頭車、クハ167−2が廃車となっており、代替で神領区で当時余剰となっていたクハ165−3を先頭車として組成していた。このほか、H11はシールドビーム化されたものの比較的原型をとどめた前面なのに対し、19編成は衝突対策に鋼板をまかれた際、ライトケースが前照灯尾灯一体化のもんに交換されている。この後、名古屋での写真を確認すると最後尾車がシールドビーム丸ライトなのでH11編成、大垣方がH19編成とわかる。つまり、うきはは5号車に乗ったので、H11編成の大垣方先頭車、クハ165−3に乗車したことになる。なんだ、167系乗って無いじゃんw

  品川→名古屋:クハ165−3 23:55発 9375M 臨時大垣夜行「大垣」 5号車 

 発車時刻になると長距離旅行者に混じって通勤客が増えてくる。結局、臨時列車なのに普段どおりの通勤列車然となって品川を発車。ムーンライトと異なり、こちらは「普通列車」なので、川崎や横浜でも定期券客を拾っては落としてゆく
 淡々とした車内アナウンスが終わると川崎。川崎を出ると、おもむろに席を立ち、混雑した車内、通勤客を掻き分けて3両後ろの車掌室まで移動した。使用している18切符に「鋏」を入れてもらうためで、0時を過ぎて最初の停車駅である川崎発車後にこの作業を行ったのだ。当事はそんなに旅慣れておらず、18切符鉄則「日付が変わったら入鋏」を即座に行わないといけないような気がしたのである。もっとも、ほっといてもある程度客が減ってくれば検札が回ってくるだろうし、こうした長距離客は日常なのでどこから乗って・・・・・・なんて問答せずに川崎までの乗車券を見せるだけで18切符に事務的に新しい鋏を入れてくれたであろう。このあたりは初心者だし、こちらもこわごわなのだった
 行きも帰りも通路デッキは混雑していたが、それでも鋏を入れてもらって、横浜に着くまでには席には戻れたようだ。今ならもちろん図太く来るまで自席で待つだろう
 入鋏してもらえば用事は無いので少しでも眠ろうと思うが、車内はBOXが完全に埋まり通路は立ち客で満載ゆえ、楽な姿勢では眠れない。それでも記憶をなくし、「寒いな」と思って目を開けると小田原の手前であった。各駅で通勤客を吐き出し、車内はかなり閑散としていた。前の席に客が居なくなり、周辺も似たような混み具合なので、この先乗車は無いだろうと判断、靴を脱ぎ捨て前の座席に足を乗せ窓枠に寄りかかっての「寝」の態勢
 静岡、浜松、豊橋と眠っては目を覚ましを繰り返し、豊橋から先はもう眠れなくなって払暁の三河路に目を凝らす。豊橋までは主要駅の停車の快速運転だったが、豊橋から先は西小坂井、愛知御津、三河大塚、三河三谷と各駅に停まるようになる
 夜が明けきり、6:03名古屋到着

<3/31>

<名古屋>

 名古屋に到着した「ガキヤ救済臨」編成後ろはH11。東京方先頭車はトップナンバークハ167−1
 夜間はまともに写らないポジなので品川出発から名古屋までの間撮影は行っていない。旅行の一連の写真は朝のこの1ショットから始まる

 隣のホームにいた武豊行快速はキハ47。東海のコーポレートカラーになっているが、ちらりと見える車内には白い枕カバーが付いていて往年のままであろう。東海のキハ47は5両しか国鉄から継承されておらず、撮影していたのは個人的には貴重。非電化ながら利用客は多いので、両開き扉デッキなしの本系列が多く用いられたのだろう
 2015年に武豊線は電化されるが、それまではキハ25が、2011年まではキハ75、1999年まではキハ40系列が運行されていた。今でも名古屋直通はあるが、使用車種は変わっても大府から東海道本線に乗り入れ名古屋まで来ていた

 キオスクでパンと牛乳を買って朝食。関西線ホームへと向かう

  名古屋→亀山:キハ75 6:24発 普通「亀山」

 ここからは関西本線。亀山までは電化されており、213系が主に使用されているほか、165系の運用も残っていたが、この列車はキハ75の2連であった

<四日市>
 3分停車。プチ下車

 乗車中のキハ75。同系に乗るのはこれが初めて。快速みえに多用される転換クロスシートの豪華な普通列車。こうねん、名古屋と奈良を関西本線経由で結んだ急行かすがにも使用されるが、このころのかすがはまだキハ58+65で運行されていた。急行かすががキハ75に置き換えされるのは1999年のこと

<亀山>
 7:35到着

 接続してそのまま加太越えに挑む関西本線普通列車加茂行。この頃すでに同区間はキハ120化されており、急行かすがのみ国鉄型が入っていた

  亀山→新宮:キハ58 787  7:56発 329D 普通「新宮」

 さほど待つことも無く、一番南側のホームに5両連結の気動車が据え付けられた。参宮線鳥羽行を併結した紀勢本線新宮行329Dだ。一番前がキハ40で後ろにキハ58+28×2が続く。特に考えることなく、最後尾車両の右側BOXに席を取った
<多気>

 1時間ほど走って8:57、参宮線との分岐駅多紀に到着。長いホームと広い構内を持つ駅だ。ここで34分停車し、ワイドビュー南紀の退避、参宮線伊勢市方面からの列車の接続を取る
 ずいぶん停まるので、ちょっと降りて列車の写真を取っていると、前3両を切り離す旨のアナウンスが入り、乗車車両の扉が閉じた。聞くと、前三両はここから参宮線鳥羽行になるという。亀山発車時点では「新宮行」としかアナウンスされておらず、多紀に来て突然参宮線列車が出現した。確かに、多紀始発の参宮線鳥羽行列車の記載はあるが、当時使用した時刻表にはこの分割運用は書かれておらず、まったくの不意打ちであった。たまたま、最後尾に席を取ったので良かったが、前よりの3両のいずれかに乗っていたら大慌てで乗り換え作業をしなければならなかった

 キハ58 787の車内を停車中に撮影。通勤改造されておらず、昔ながらのBOXシートが並ぶ急行形気動車
 前方の車両のさらに前が明るいので、鳥羽行を切り離した後、さらに鳥羽行が先発した後に撮影したのであろう

 交換の参宮線列車はキハ11単行であった

 多紀から山中に分け入り、梅ヶ谷から荷坂峠を越えて海側へ出ると紀伊長島である
<紀伊長島>
 10数分停車

 ユーロカラーのDD51 1037が単機で停車していたので撮影。客車の類は一切見かけないので、ハンドル訓練かなにかだろうか?

 紀伊長島からは熊野灘の入り江に沿って進む。海沿いを走ったり、半島の奥深くに入り込んだり目まぐるしく景色は変わるが、座席夜行明けの体にはきつい時間帯に突入している
<尾鷲>
 11:30到着。17分停車で体を伸ばす為に降りてみるが、写真の類は一切残っていない

 九鬼、三木里、二木島、新鹿など、雑誌や地図でしか見たことの無い地名が続くが眠気も続く・・・・・・
<熊野市>
 お昼を周って12:32、熊野市到着。ここでも17分停車し、後続の特急に道を譲る
 
 乗っているキハ58と、熊野市特産の那智黒石。那智黒石は熊野市神川町で産出される粘板岩の一種。名前のとおり黒色硬質で碁石の黒石、硯などに加工される。平安時代にはすでに硯の原料として使用されていたそうだ

 後続のワイドビュー南紀3号が先に行く。名古屋を10時頃に発ってきた列車でおよそ3時間の距離をここで縮められたというわけだ

 熊野市からは熊野灘に続く海岸線に沿って進む。少し海から内陸に入り、線路は直線。風景は淡々としたものに変わる。新宮川を長い鉄橋で渡り、新宮城の下をトンネルで抜けると終点新宮である
 13:20到着。亀山から5時間34分の旅路であった。夜行明けで動いているため、もう長いこと列車に乗っているが、まだこれでも昼少し過ぎ。一度ホテルにチェックインだけして、市内の観光へと出掛ける。駅前でレンタサイクルを借りて史跡を巡ろう。南紀はいつきても暖かい。まだ3月だというが、陽気は頗る良く、ポロシャツ1枚で出直す

 浮島の森を経由して速玉大社まで行こう
 浮島の森はその名のとおり「島が浮いている」50m四方くらいの「島」なのだが、見た目では浮いているのか、地面と繋がっているのかは判らない。「ぷかぷか」と浮いている感じはしない

 熊野三山がひとつ、熊野速玉大社にやってきた。神門

 社殿。明治16年花火による失火に伴い全焼し、現在のものは昭和42年に再建されたもの
 主祭神は熊野速玉大神、一般的な名はイザナギである。背後にある神倉山にあった神倉神社を現在地に移転、神倉神社を元宮とし、現在の速玉大社を新宮とした。これがこの地の「新宮」の由来である
 奥地にある本宮にはこの10年後、2008に出掛けたが、三山のうちのひとつ、熊野那智大社にはまだ参拝出来ていない
 
 春休み中だが、紀伊半島の先っぽ、新宮という土地柄観光客は多くは無い

 参拝を終え、駅に戻りレンタサイクルを返却。途上で381系スーパーくろしおを撮影。このカラーも過去帖入りしている。パノラマグリーン側は撮影したが、通常の非貫通オリジナル前頭は撮影出来なかった

  新宮→鵜殿:キハ58 15:04発 普通「 」

 まだまだ日は高いので、一駅キハ58に乗って鵜殿まで出掛けた
 来る時に見かけたのか、それ以前に雑誌の記事か何かで見ていたのか、ここにある専用線を見てみたかった。もちろん、行き当たりばったりなのでダイヤなどはわからず、とりあえず何かあるかな?くらいで赴いてみた

<鵜殿>

 紀勢本線鵜殿駅西側から南方へカーブして小さな川を渡ると直ぐに紀州製紙紀州工場。専用線はここから製紙を輸送した

 どのあたりまで入っていって撮影したのかは定かではないが、コキに連結されたスイッチャーまで撮影している。うろうろしているうちにいつの間にかスイッチャーが編成の先頭に連結されていた。コンテナの扉が開いているので直ぐに動く気配は無いが、末期のダイヤだと15:40位に鵜殿を発つ設定なので、もう少し待っていれば専用線を行く風景を撮影出来たかも知れぬ。しかし、結局、これだけ撮影して退散してしまった
 ここの専用線は1994年までは有蓋車(ワム80000等)からコンテナ化されつつも存続したが、2013年にはとうとう廃止になってしまった。高速貨物1往復ながら、急勾配の続く線形からDD51が重連で仕業に就くことで有名だった。それも末期には編成減車で単機牽引となり、2013年3月改正で廃止されてしまった
 今みたいにスマホで膨大な情報を得られる時代ならともかく、携帯電話すら持っていない時代なので残念ながらそのまま紀州製紙工場を後にし、駅へと戻った。発車時刻が近ければ牽引機のDD51が鵜殿に居ても不思議は無いのだが、こちらも見かけなかったのでそそくさを踵を返したのだろう。DD51は新宮辺りへ給油にでも行っていたのかもしれない
 駅へと戻ったが、新宮行列車は16:40まで無い。1時間近く時間が空くので思案したが、目の前の国道を走る路線バスの存在に気付き、こちらを利用して新宮へと戻った

  鵜殿駅前→新宮駅前:三重交通 

 新宮へと戻ってきたが、ホテルには入らずさらに散策を続ける。夜行明けだがまだ10代なので元気も有り余っているw
 チェックインの時にホテルで貰った市外の地図に専用線が描かれていたので、今度はそちらを探索してみようという按配だ
 その地図は今はもう無いが、その「専用線」は有名な熊野地支線のものであった。新宮を出ると東へ曲がり海側へ出ると墓地のところが終点。墓地の手前に熊野地という貨物駅があって、木材の搬出などをしていた。当時はすでに廃線で、新宮駅の構内はずれに少しばかりの線路が残っているほかは空き地が続いているだけであった。ちょうど区画整理が始まった頃のようで、線路後は新しい道路に切り替わりつつあった他、熊野地駅構内と思しき広い空き地ではブルドーザーが地面を均している最中であった。線路脇には古枕木の柵が残っており廃線跡の雰囲気がまだあったが、2008年に再訪したときは真新しい道路と住宅に様変わりしていた。熊野地支線を見れる最後のチャンスだったんだな
 メモには熊野地駅に隣接した製材所の中にトロッコの軌道があるなんて書いてあるけど、こちらも今は残っているかどうか・・・・・・

 これが現在の新宮駅付近の地図である。マウスを当てるとロールオーバーで熊野地支線と、熊野地駅から伸びる本州製紙専用線が浮き出る。もともと、ここは1913年、大正2年に新宮鉄道によってここまで鉄道が延びてきたときは本線であった
 三輪崎駅から北上してきた線路は王子が浜に沿って今よりも北へ伸び、S字を描いて現在の新宮駅付近へと至っていた。途中にあったのが熊野地駅で、新宮駅も当時はもう少し北よりだったという。その後、新宮鉄道は国有化され紀勢中線となる。1934年のことだったが、地勢が険しい紀伊半島を周回する紀勢本線は建設が難航し、部分的に開業していたので紀勢東線、中線、西線に分かれていた
 1938年には現在線にあたる新線が開業し新宮駅も移転、旧線は熊野地までの貨物支線に転換された。その後は木材や製紙出荷の貨物線として使用されるが、1982年にはこの支線も廃止となった。訪れた当時は廃止後すでに16年が経過していたが年月の割には痕跡はそのまま残されていたと思う
 それに比べて、熊野地から先、現在線との分岐部分までは長い年月を経て痕跡を残すものは一切が見られなかった

 紀勢本線旧線をたどり、王子が浜までやってきた。ずいぶん日が傾いてきた。
 
 厳しくなる光量の中、紀勢本線の列車を撮影。この辺りのローカルは165系が担っていた。283系オーシャンアローも2年ほど前に走り始めたばかりだった


 紀勢線をまたぐ陸橋の中ほどから、和歌山行き普通列車165系を。この頃、新宮駅はJR東海のキハ58、JR西日本の165系と気動車、電車の国鉄急行形が顔をあわせる当時としても既に珍しい駅だった

  新宮→紀伊佐野:165系 19:06発 普通「日根野」

 夕食を買い込んで、夕方のプチ散歩。2駅先の紀伊佐野まで165系に揺られた。乗った列車は入庫を兼ねた列車で和歌山の先、日根野まで行く列車だった
<紀伊佐野>
 紀伊佐野に来た理由は特に無い。隣の三輪崎だと近すぎて物足りなかったのだろう。いろいろわかってくるのは後年になってからだ
 自分ひとり以外は降りなかったと思う。細い島式ホームから構内踏切を渡って駅舎へ向かったが無人だった。付近に人家は少々あるが、人気は無い。都会ならば夕方のラッシュで人でごった返す時間帯だ
 4〜5匹の猫と戯れ、1時間後の列車を待った
 紀伊佐野も付近にあった巴川製紙新宮工場への貨物取り扱い駅であった。1995年までは鵜殿からの貨物に併結されて運行されていた。1996年には工場そのものが閉鎖されたがJR貨物の扱い駅としては2008年まで設定されていた。もちろん列車は来ないので、休止扱いという形だ。訪れたときは廃止から2年程度であったが、すでに構内側線は無くなっていた様な気がする。それとも、2008年に再訪したときの記憶と混在しているかもしれない。いずれにしても、1998年も2008年も似たような時間に行ったが、まったく雰囲気に変化はなかったな。今では製紙工場跡に大きなショッピングモールが建っているようだ

  紀伊佐野→新宮:165系 20:15発 普通「新宮」

 帰りも165系。昨日の夜行以来急行形ばかり乗った贅沢な旅だ
 ホテルに戻って長い一日終わり。今日の宿はステーションホテル新宮

<4/1>

 国鉄色の381系くろしおが残っていた。紀勢本線特急電車はこの国鉄色一般車と、リニューアルされパノラマグリーンが付いたスーパー編成、それから「オーシャンアロー」283系という陣容だった

  新宮→御坊:165系 7:00発 普通「和歌山」

 昨日の好天とは打って変わって、本日は涙雨。霧雨煙る紀州路を僅かな乗客の国鉄急行形電車は進む
 春休みだが、部活などがあるのだろう、時折学生が乗っては、一挙に降りてゆく
 3時間程かかって半島のだいぶ西、御坊に到着。ここで下車
 
  御坊→西御坊:キハ603 10:21発 「西御坊」

 直ぐの連絡で紀州鉄道の気動車に乗り込み、終点西御坊を目指す。日方から出ていた野上電鉄は既に無く、湯浅から出ていた有田鉄道も合理化と旅客減少から運転本数を著しく減少させており、まともに乗れる紀伊半島の私鉄はこの紀州鉄道くらいだった
 この紀州鉄道は総延長2.7kmの小さな小さな鉄道。延長距離2.2kmの柴山鉄道が開業するまでは長らく普通鉄道として日本一短い私鉄だった。
 御坊を出ると直ぐに南へ進路をとり、ゆっくりゆっくり走って10分足らずで終点の西御坊に到着。2.7kmという短距離だが、間に学門、紀伊御坊、市役所前の3駅もある
<西御坊>

 1989年まではこの先、日高川まで線路は延びていた。この頃もそうだが、今でも大半の線路はそのまま残されている。将来的に日高川河口の港湾設備が改修されたら復活させる計画があったそうだが・・・・・・

  西御坊→御坊:キハ603 「御坊」

 乗ってきた気動車でそのまま御坊へと戻る
<御坊>

 御坊に到着したキハ603。この頃の主力で同系のキハ604がいた。どちらも大分交通耶馬渓線からやってきた中型気動車でDMH17エンジン搭載、バス窓でヘッダー付き、良くありがちな地方私鉄の気動車だったが、この頃でもすでにこんな古色然とした気動車は国内にほとんど残っていなかった
 「耶馬渓線の気動車がまだ残っている」という話を聞いて是が非でも乗りたかったんだろうな。既に廃止になっていた野上電鉄、有田鉄道も先行きは怪しい、この先、次に来れる機会に恵まれたときにはもうこの鉄道は無いかもしれない、そう思っていた
 幸いなことに紀州鉄道は現在も存続しているが、このキハ603は廃止となった北条鉄道から来たレールバス2両によって代替され、2009年にさよなら運転を実施。以降しばらくは紀伊御坊の側線に留置されていたが、現在は地元商工会の手で保存されていることは喜ばしい限り
 なお、このとき、もうひとつ生き残っていた有田鉄道には寄り道すらしていない。先述のとおり、朝晩しか運行が無く行程上組み込めなかったに違いない。有田鉄道は2003年10月に廃止を予定していたが、並行バス路線も整備され廃止に支障は無いとされ2002年12月末をもって廃止された。最末期は1日2往復だけの運転となっており、すでに鉄道としての使命は潰えていた

  御坊→和歌山:113系 11:05発 「和歌山」

 新宮口では165系しか見かけなかったので、紀伊田辺発の列車であろう。そのあたりまでは113系の運用も多かったようだ

<紀伊由良>
 特急列車退避のために停車。ホームに出ると雨は上がっていた

 113系なんか撮影する必要も無いくらいあちこちに走っていた電車だったが、阪和色が珍しかったのか1カット撮影している。阪和色はこの1枚しか撮影していないので結果として貴重なものとなった

 スーパーくろしおが通過してゆく

○ 和歌山→天王寺:103系 快速「天王寺」

 直ぐの乗り継ぎで天王寺行に。ロングシートの103系だし、乗客は既に多かったので一番前でかぶりつき

  天王寺→JR難波:103系 「JR難波」
  近鉄難波→近鉄奈良:5800系 急行「奈良」

 前年、1997年夏にデビューしたばかりのL/Cカー。今では珍しくなくなったが、ロングシートとクロスシートを転換できる画期的車両だった。まだラッシュ時間帯ではなかったのでクロスシート仕様であった

  近鉄奈良→近鉄京都:12200系 15:00発 特急「近鉄京都」

 スナックカー4連。なんだかわからないが、友人から「しかせんべい」の土産を頼まれ、これのためだけに奈良を経由した

<京都>
 まずはホテルにイン。宿は京都駅北側にある京都ホワイトホテル。前日の確認電話で判明していたが、ホテル本館は満室なので、近所の別館に部屋が確保されているとのこと。行ってみると長屋のような、民宿のような、間違いなく「ホテル」という建物ではない。部屋は畳敷きの和室、風呂、便所は供用であった
 こんなところに居ても仕方ないので、直ぐに出なおす

  京都駅前→百万遍:京都市営バス

<百万遍>
 緑寿庵清水へお土産を買いに行ったが、店は17時前だというのに既に閉まっている。ここは日本で唯一といわれる金平糖の専門店であった
 入手に失敗したので、徒歩で出町柳へ出る。今出川通を西へ300m程。バスに乗る程ではない

  出町柳→京橋:8000系ダブルデッカー 特急「淀屋橋」

 前年1997年9月〜10月にかけて、8001F〜8005Fにダブルデッカーが組み込まれて運転を開始した。これを狙って京阪をチョイスしたようだ。同年4月に残りの8006F〜8010F用のダブルデッカーが製造され、8両化が終了した。このときはまだ全編成にダブルデッカーが組み込まれていたわけではないが、特段待つでもなくダブルデッカー2階席に乗っているので、運が良かったのだろう
 もっとも疲れからか居眠りをして起きたらもうまもなく京橋であった

  京橋→大阪:車種不明 「環状線」
  大阪→神戸:221系 新快速
  神戸→兵庫:車種不明 普通
  兵庫→和田岬:キハ30 18:23発 普通「和田岬」

 京都から兵庫ではまたえらく離れたところまで出張ってきたが、和田岬線に乗ってみたかったのだ
 正式な名称は無く、山陽本線の支線。通称「和田岬線」と呼ばれる。1990年までJR最後の旧型客車が定期運行されていた路線で、訪れた当時は旧客に代わってキハ30が使用されていた。中間駅は無く、起点の兵庫駅、終点の和田岬駅共に片側にしかホームが無い関係で、ホームの無い側のドアが埋め込まれ、工場への通勤需要に特化していることで座席の多くが撤去されているなど特徴的な車両が使われていた
 自宅近隣の八高線が電化され、キハ30は引退していたので、この和田岬線でのキハ30が久々の乗車であった。夕方ラッシュなので兵庫からの列車はガラガラだった
<和田岬>
 折り返し時間はそんなに無いので、最初から車内に留まって居るつもりだったが、到着と共に通勤客が大挙乗り込んできてそもそも降りることが出来なかった
 同じ列車で兵庫へと戻る

  和田岬→兵庫:キハ30 普通「兵庫」

  兵庫→元町:車種不明 普通

 兵庫から元町までJRで移動。往路は阪神間をJRで移動したので、帰路は路線を変えてみたくなった。選べるのは阪急か阪神だが、ほとんど乗ったことが無い阪神をチョイス

○ 元町→梅田:車種不明5000系? 特急「梅田」

 山陽電鉄の車。最前部でかぶりつき

  大阪→京都:車種不明 新快速

 大阪からの帰りは素直にJRの新快速。ラッシュ真っ只中で混雑していたが、乗らねば帰れないと人込みに紛れて車内へと進んだ。今なら大阪〜京都でも特急だ新幹線だと安楽に走るが、この日は18切符が有効だったし、余計な出費は抑えていたのだな
 宿に戻ると番台のおばさんにお風呂の都合を聞かれる。供用なので好きなときに好きなだけ入れるわけでは無い。直ぐに入ったか、合間を空けたかは覚えていない。夕食もどこで摂ったかな・・・・・・そうゆうことは一切メモを残さない。乗り物にばかり興味を持っていた子供だった

<4/2>

 最終日。ぱっとしない天気ながら、降雨はなさそう
 チェックアウトしまずは京都駅へ

 たまたま到着した寝台特急日本海を1枚撮影

 通過線をEF65 0番台牽引のコンテナ列車が駆け抜けていく。次位は無動力回送のEF66 0番台
 すぐさま、奈良線ホームへ。今日は伊丹から東京へと帰るので、あまり遠くへは行かない

 奈良線は103系と共に117系が多数運用に就いていた。快速電車は基本117系だったが、普通列車運用もあったようだ。奈良線の快速は後に、名称が付いて「みやこ路快速」となったがこの頃はただの快速

  京都→東福寺:117系 普通「奈良」

<東福寺>
 歩いて東福寺へ
 JR東海のCMかなんかで見たのだろうなw日本最古の最大級の伽藍と言われている東福寺。今ならまた違う目でいろいろ見ることが出来るだろうな

 縦位置の写真が多い。東福寺西側の街路にある「臥雲橋」
 
 東福寺境内ににある通天橋。左のカットは臥雲橋から撮影したものかな。右のカットは斜め横からだから、境内からだろうか
 もう中に入ったのかどうかも記憶にない。境内そのものは自由に入れるが、通天橋は拝観料400円かかるので、中からの写真は無いのだろう。こうゆうと頃には出資を拒むのだな
 メモには寺の中をぶらぶらとあるので、一応境内には入ったようだ。その割には写真は全然無い。フィルムのコマ数の兼ね合いもあるので、この辺はなんとも・・・・・・

 東福寺からは表参道を逆に進み、京阪の鳥羽街道へ
<鳥羽街道>
 定点観測

 南側を向いて、三条行2613Fを撮影。幌付き、ガイコツテール、助手側のユニット窓など独特な京阪顔。後年、この編成は中間に押し込まれ、先頭に立つ事は稀になった。この編成は13000系に置き換えられて2012年に廃車となっている

 三条方面ホームから撮影。昭和末期から平成にかけての新京阪顔、7000系のトップナンバー7051F
 6000から始まったこの顔は7000を経て、7200、9000、10000まで続く

 三条方先端から出町柳行特急8000を後撃ち

  鳥羽街道→東福寺:車種不明

<東福寺>

 再び東福寺。奈良行の普通列車は103系。戸袋窓は既に埋められている

  東福寺→京都:車種不明 普通「京都」
  京都→向日町:車種不明

<向日町>
 ホーム先端で定点観測

 北側にあった大阪住友セメント向日町サービスステーション専用線。1999年まで近江長岡からのセメント輸送があり、他に2006年まで本巣からのセメント輸送があった
 写真のスイッチャーは国鉄のディーゼル機関車のような塗装だが、晩年は薄いグレーというか、色褪せたブルー見たいな塗装になっていた

 空写しのコマ。黄色の103系が写っていたので上げてみる。関西では福知山線の宝塚電化に際し導入された。黄色はここだけだったが、東海道本線京都方面との直通運用が増えると順次スカイブルーに変更された

 関空特急「はるか」281系

 忌まわしい脱線事故でイメージが悪くなったと塗り替えられる前の207系

 EF65 73号機牽引のコンテナ貨物。ロクゴ0番台もまだ結構走っていた。同機は2004年に廃車になっている。最終配置は岡山だった

 223系新快速

 スーパー雷鳥のパノラマグリーン。485系は「雷鳥」とパノラマグリーンを組み込んだ「スーパー雷鳥」で使用されていた。当時は一部は新潟まで足を伸ばしていた

 サンダーバードの681系。前年にスーパー雷鳥(サンダーバード)から「サンダーバード」に名称変更されている

 新快速用かと思いきや、普通運用も既にあった223系

 スカートは取り付けられたが、他には改造されていないクハ200−89。今は森之宮に転属しオレンジバーミリオンになっている
 201系は中央線快速線、中央総武緩行線向けに大量に増備されたので関東でもお馴染みだったが、スカイブルーの201系は京阪神緩行線向けでしかこの頃は見られなかった。関東でスカイブルーの201系が見られるようになるのは京葉線に転属した2000年以降である

 列車の詳細は不明。この頃485系ボンネット型国鉄特急色は関東ではほぼ見られなかった

  向日町→大阪:車種不明


 車内から撮影した583系きたぐに
<大阪>

 雷鳥も485系ボンネット形がまだ活躍していた

  大阪→京橋:車種不明
  京橋→大阪城北詰:207系

 前年に開業したばかりのJR東西線に一駅だけ乗車。大阪城北詰はかつての片町駅の近傍。まだ片町駅の遺構が残っていた。そういえば、JR東西線は開業前は「片福連絡線」なんて言われていたっけ。片町線と福知山線を連絡する新しい路線って事で。それが「JR東西線」なんて捻りもないありきたりな名前にされてがっかりした覚えがあるな

<大阪城>
 北詰から歩いて大阪城へ

 幼き頃に来たことがあるのだが、そのときの記憶は全然無い

 観光客の多さに辟易して、天守閣には登らず。外から眺めるだけで退散してしまった
 帰りは大阪城公園へ出たようだ

  大阪城公園→京橋:車種不明

<京橋>
 コインロッカーから荷物引き出し

 すでに車種や時間のデータが無いので、記述だけ
 京橋で荷物を引き上げると、環状線大阪経由で新大阪へ。当時すでにあるのかわからなかった、以前に父親が購入してきた「大阪城もなか」を探すためだけに新大阪にやってきた。新幹線で帰るわけではないので、この土産を探すためだけにきたのだが、目的の物は見つからず、再び大阪経由で京橋へと戻った。大阪城もなかは以降何度も大阪に来るたびに探したが、ついぞ見つけることは出来ず、現在に至っている
 京橋から京阪で門真市へ出て、全通した大阪モノレールで空港へと出るつもりだったが、京阪の案内では大阪モノレール乗り換え駅の表示が無い。表示に気付かなかっただけかもしれないが、当時はネットなんか無いので即座に調べることも出来ず、駅係員に聞けばいいものの、それもしなかった
 結局、再度大阪に戻り、梅田から阪急京都線で南茨木へと出た。大阪モノレールの最初期の起点が南茨木だったのは知っていたのだろう
<南茨木>

 乗ってきたのはこの2315Fだろうか?

 春の行楽シーズンなので特急用6300系には京都方面の行楽輸送用にヘッドマークを掲出している

 パンタが切れたwしばらくいたが、来る電車がほとんど同じ形なのであんまり腰を据えて撮影しなかったようだ。2001年までは2800系が3両、2300系の中に組み込まれて運用に就いていたのだが、そんなことは知る由も無く、撮影なぞは夢のまた夢

 モノレールホームに上がって一枚

 途中、車窓から太陽の塔
 数年前に伊丹空港を利用したときはまだ空港までモノレールが伸びておらず、空港から蛍池まではバスで移動した。ずっと後に歩いたことがあるが、徒歩でも15分程度の距離だ
<伊丹空港>
 早めに着いて飛行機ウォッチング

 当時バリバリの最新鋭だったB777−200。JA8967は1996年に導入された4号機。

 JASのA300

 JACのYS−11も伊丹からたくさん飛んでいた
 写真のJA8768は2006年に福岡〜徳島でうきはが最後に乗ったYS−11だと、いま気付いたw

 先の8768とANAのB767−300

 スポットインするB767

 MD−87、JA8370

 旅行、一連の最後の写真はJALのB737−400。JA8993愛称は「ヒマワリ」JALタイトルの後ろにヒマワリのイラストが入っている

  大阪・伊丹→東京・羽田:NH036 B747−SR 18:00発 

 シートナンバーは覚えていないが、前方、Aゾーンの左窓側に座っていたのは確かだ。隣の席のおばさんと終始歓談しながら東京への短い飛行を楽しんだ。高校も卒業してそれなりに大人になっていると思っていたが、本当の大人からすればまだまだ子供。子供一人で飛行機に乗って旅していて、おばさんもきっと気にかけてくれたんだろうな・・・・・・と、今となっては思う


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