最終話 |
| 「沙織っ!沙織っ!!」 舞台に上り、沙織の元に駆け寄って詩織が沙織に呼びかける。しかし、沙織は鍵盤の上に突っ伏したまま動かない。 「だ、大丈夫か!?」 教師風の男が二人ほど舞台の袖から、慌てて出てくる。「貧血での起こしたのか」と呟くと、手際よく沙織を担架に乗せそのまま舞台を降りていく。詩織もそのまま教師とともにホールを出て行ってしまった。その光景に今までの演奏もあわせてホール内は騒然となった。 「沙織君…」 「心配するな。別に何が起こったって訳じゃないさ。極度の緊張と全力を出し切った演奏のために疲弊しきって気絶してるだけだろう」 心配する武尊に、少しも動揺せずに答える兄。 「あの時の、君のようにか」 「そうだな…。教授戦の直後の俺もあんな感じだったか」 「少し、様子を見てきます」 武尊は、先ほどの沙織の演奏でグラつく頭を押さえて立とうとした。 「…もう、すぐに可憐の演奏が始まるぞ」 「可憐君には、既に私の教えるべきことは全て伝えてありますから。あとは、私がここにいても仕方がありませんよ。彼女しだいです」 そういうと、武尊は兄をまたがる様にして通路に出る。こんなことなら自分が通路側に座っておけば良かったと思ったが、まぁ問題は無い。 「そうそう、むしろ彼女の演奏を聞くべきは君のほうだと思いますよ。貴方の知らない、可憐君の二年間を是非とも聞いてあげてください。彼女も喜ぶと思いますし」 武尊は、少し振り返ってそれだけ言うと未だに騒然としているホールから消えていく。 残された兄はそれを眼で追う事もせずに舞台のほうを向きなおした。 「二年…か」 沙織が倒れてからホールが再び静まるまでは時間にすれば五分も掛かっていない。その為、プログラムには若干の遅れは出はしたが、無事に再開することに。それで無くともスケジュールというものは遅れがちなものなのだから殆ど問題は無いと言える。その為、これから演奏する者はその事実さえ知ることは無かった。可憐も、そんな一人。可憐の演奏は沙織の三人後、もう殆ど影響は無い位置だった。 だから可憐はとても良い精神状態で演奏に望むことが出来た。もし、あの沙織のことを可憐が知ったのなら性格上彼女の事が気になって自分の実力を十分に発揮できるかどうか分らなかっただろう。 「お兄ちゃん…」 可憐は、舞台袖からピアノへ足を運んだ。同時にアナウンスが流れる。 「二十八番。曲名、シューマン 子供の情景より トロイメライ」 アナウンスが流れた後、一瞬の静寂が訪れる。可憐の脳裏にはその瞬間に色々な事が思い出されて行った。初めて学校で詩織の演奏を聞いた時のこと。武尊のレッスンを受けたこと。兄に自分の力を見せてくれと言われたこと。それらが滝のように思い出されては消えていった。 「…トロイメライ、か」 兄もまた、可憐が最初の一音を発するそのわずかの間にその記憶を思い出していた。 「そういえば…可憐が最初に俺に聞かせてくれたのもこの曲だったな。あの時はあまりにもヘタ過ぎて笑ってしまうところだったが…一生懸命な可憐が、可愛かったっけ…」 静寂の中で、可憐は自分なりのタイミングを掴み最初の一音を鍵盤に刻む。 「…」 おそらく可憐は弾いている途中では何も考えてはいなかっただろう。そんな余裕は無いしだろうし。だから、それは「思考」ではなく、漠然としたただの「想い」。この時点で既に可憐は兄から言われた「自分の力を見せること」とか、「県大会突破」などの目的は頭の中に残ってはいなかった。そこに至るまでの練習のことや、その他一切の事を。そこにあるのは純粋で、もっとも根本的なこと。ただ、この会場の何処かに居るであろう兄に向けて、「お兄ちゃんにこの曲を聞いて欲しい」というその想いだけが、可憐の旋律を彩っていた。 その想いはやがてホール全体を包み込み、その場に居る人々の心にもまた届いていた。そんな優しい感覚が包み込む中、可憐の演奏は終了した。 可憐が演奏を終え、観客の方に頭を下げるとホール全体から揺れるような拍手が沸く。その地響きのような大きさに可憐は少しビックリしたが、それが自分に向けられているということを理解していくにつれ、自分の出来る限りの力を出すことが出来たと確信した。そして、可憐は少し泣きそうになってしまった。 「う…」 沙織が目覚めたのは、真っ白で何も無い部屋だった。今、自分が寝転んでいたソファーと一つのピアノ以外は。 「ここ…は?私…」 沙織は周りを見回たが、誰も居ない。今の自分の状況を理解できない沙織はドアから外に出ようとした。その瞬間、ドアの方から開いてきて自分にぶつかりそうになる。 「沙織!良かった…気が付いたのね」 「姉さん…?ここ、どこ?」 詩織は沙織の顔を確かめるようにさすると、「心配させないでよね…」と言った。 「ちょ、ちょっと!止めてよ…。何があったってのよ」 「…気付いてないの?あなた、ピアノの演奏が終わってから急に倒れちゃったのよ」 「ええっ!何それ!?」 「だから、詩織君がここの控え室に運んでくれたんですよ(実際に運んだのはあの二人の教師ですが…)」 詩織と一緒に部屋に入ってきた武尊が詩織の説明に補足を加えた。 「そう言われてみれば…私…弾き終えてからの記憶が…無い」 沙織は、自問自答する様に自分の記憶を辿った。しかし、やっぱり記憶が途切れている。演奏を終えてから…いや、正確には最終小節あたりを弾いた覚えすらない。その後に思い出されるのは…。 「沙織、凄い演奏だったよ。ちょっと見ない間に凄く上手くなったね」 「ふん」 そう、思い出されるのは、目の前に迫った大きな姉の…詩織の顔。本当は今のセリフだって沙織にとっては死ぬほど嬉しいものだった。でも、今までの態度からも何となくそんな反応を返してしまうのだった。そんな態度を取ってしまう自分にちょっと嫌気が差す。 「そ、そうよ!青葉祭は!?結果はどうなったのよ!?」 ぼーっとしていて思わず忘れてしまうところだったが、それをまだ沙織は聞かされていなかった。いや、まだ青葉祭が終わっていないかもしれなかったが。 「さーおりっ!!」 「なっ!」 不意にドアから進入してきた誰かに抱きつかれた沙織は、そのままソファーに押し倒される。 「さ、佐代子!?な、何すんのよ!」 「へへへっ!」 佐代子を振りほどき座りなおした瞬間、いつの間にか現れた可憐から目の前に花束が出された。 「優勝、おめでとうございます。沙織さん」 「へっ!?」 目のまで繰り広げられている展開にアタマが付いて来ない沙織。 「ゆ、優勝って…私が!?」 「そーよ!あんたが優勝したのよ!だから、ピアノ部の皆で沙織が目覚める前に花束を買いに行ったの」 佐代子がそう言うと、その狭い部屋にぞろぞろと生徒達が入ってくる。皆ピアノ部の部員達だ。 「沙織、おめでとう!」 「茅名先輩、全国大会も頑張ってください!」 口々に、沙織に祝福を送る。「皆、沙織のこと心配してたんだからね」と佐代子が補足する。この展開を用意した張本人は彼女だった。 「みんな……」 その光景に少しうるうると来る沙織。青葉祭の直前に他の人間に教えを受けることを選んでしまった自分はある意味、ピアノ部を裏切った様に思っていた。でも、今、その自分を受け入れて、祝福をしてくれる。その事が今の沙織の心に暖かさを感じさせていた。 「沙織君」 「武尊…先生…」 「……素晴らしい演奏でした。しかし…」 武尊は、沙織の演奏が「黒きdear」から生まれたものであることを先ほどの演奏で確認し、沙織も武尊には分っていることを理解していた。 「先生の言いたいこと、私も良く分かります」 沙織が武尊の言葉を遮る。 「私も最初、この力のことを知ったとき、戸惑いました。でも、今は違うんです」 「違う…?」 「私は、姉さんに勝ちたくて、勝ちたくて…ピアノを続けてきました。いつからかそれが目的になって、弾くことの意味を忘れていました」 「…」 「でも、あの力に出会って…こーゆーの…自分に合ってるなって思ったんです。私には姉さんほどの才能は無いから、だからこそ感じれる事があるって。コレが、私のスタイルなんだって思ったんです」 「しかし…君はそれで本当に良いのかい?」 その答えは、武尊にとっては全くの想定外だった。自分から音楽の「闇」の部分を担おうとする、沙織の選んだ答えは。 「はい。教えてくれたのはあの人だけど…自分で選んだ道ですから。姉さんには無い、私だけのスタイル。きっと私は、姉さんに勝ちたかったんじゃ無くて、これを見つけたかったんだと思います。誰に何と言われようと揺るがない、自分だけの道を」 「…そうですか。それは、それは素晴らしいことです。よくそこまで自分で気付けましたね。沙織君」 武尊は、沙織の瞳に今までには無い力強さを感じ、確信した。これから更に沙織は力を付けるだろう、と。 「だから言っただろう?武尊。自分の価値観を押し付けるなってよ」 兄がいつの間にかドアの前に立っていた。思わず道を譲る部員達。何だかんだ言っても、沙織のことを心配して見に来たようだった。 「せ…」 「お兄ちゃん!」 沙織がモノスゴイ勢いで可憐のほうを振り向く。「オニイチャン」って…。もしかして…その瞬間、一気に沙織のアタマが回転する。そして、 「はじめまして」 初対面の相手に使う挨拶。それを沙織は兄に対して使っていた。それは、可憐に対しての気遣いだったのだろうか。その言葉に兄は少し戸惑ったようだったが、可憐に自分が沙織のコーチだったことを知られるのは得策では無いと考えていた兄は同じように「ハジメマシテ」と言った。 「ここに居たのか、可憐」 可憐は、実を言うとほんの少し今は兄に逢いたくなかった。今まではそんなことは一度も無かったが、今は場合が違う。可憐は兄との約束である「青葉祭優勝」を果たす事が出来なかったのだから。 「お兄ちゃん…可憐…可憐は…」 「久しぶりに…聞いたよ。可憐の演奏」 可憐は、優勝者が自分ではなかったこの結果に納得していた。確かに直接沙織の演奏を聞いたわけではないが、あの時の演奏は自分の全力だったことは間違いない。それでも及ばないのならばしょうがないと、自分の中で整理もついている。ただ、兄から言われた事を果たせなかったのは悔しかった。 「ごめんなさい…可憐…一生懸命やったんだけど…」 今にも泣き出しそうな瞳で兄を見つめる可憐。 「上手くなったな、可憐」 「えっ…」 その可憐の頭を少し撫でながら、そう優しく言う兄。 「…トロイメライ…可憐が初めて俺に弾いてくれた曲だったな…。覚えているよ。ただ、俺に聞いてもらう為だけに、一生懸命弾いてくれたな」 「お兄ちゃん…」 「あの時と同じだったよ。可憐がさっき弾いた旋律は。そこのところだけは変わってなかった。ピアノをただ聞いてもらうことだけでなく、色々な意味を載せてしまった俺とは違う。可憐なら、大丈夫だ」 可憐の目に少し溜まっていた涙を指で掬いながら、兄は続ける。 「その気持ちをいつまでも忘れるなよ、可憐」 「はい!」 と返事をするのが早いかどうか、可憐は兄に抱きついていた。さっき兄が掬ったにもかかわらず、その後からとめどなく涙が流れてくる。顔を胸にうずめながら可憐は、「…可憐は、お兄ちゃんの為に弾く時なら、何時だってそういう気持ちで弾けるんです。だから、これからもお兄ちゃんの為に、弾かせてくださいね」と言った その様子を兄は苦笑して見ていた。そして、自分が可憐に掛けていたプレッシャーの大きさを感じて少し反省した。 周りでその様子を見ていた沙織やピアノ部員は何が起こっているのか良く分からなかったが、それが何か嬉しいことであるのは感じ取ったようで、暖かく見守っていた。 「そういえば…可憐は、何かの曲を弾きたくてピアノを再び始めた…と言っていたな。どんな曲だ?今の可憐ならどんな曲でも弾けてしまうだろう」 兄が可憐が少し落ち着いてから、思い出したように聞いてみた。 「は、はい…「愛しきものへ」って言う、お兄ちゃんが武尊先生と一緒に作った曲です!昔、可憐に良く弾いてくれた…」 可憐は、ドキドキしながらその曲のことを兄に話した。もしかしたら、もしかしたら…。 「愛しきものへ?何だそれは…?」 「えっ!?」 今までの幸せ気分がどっかに吹っ飛ぶような突風が可憐のココロに吹きすさんだ。まさか、兄がこの曲名を知らないとは思ってなかったから。 「ああ、すみません可憐君。その「愛しきものへ」というのは、私がソロ用に改定したときの題名です」 横で聞いていた武尊が、すまなそうに声を出した。「いつか言おう、言おうと思っていたんですが、機会を失っていましたね」と後に付け加えて。 「あの曲の原題は「可憐」と言います」 「可憐…!?」 自分の名前が思わぬところから飛び出してきて、驚く可憐。 「そうです。だから私は初めて君の名前を聞いた時、この曲の本当の意味を知ったんですよ。それまではただ言葉としての「可憐」という意味だと思っていたので。まさか、妹さんの名前だとは思わなかったですからね」 「あれ、あの曲だろ?言ってなかったっけ?」 とぼけるように兄が言った。 「言っていませんよ。ただ、「自分の一番大事な人にささげる曲だ」としかね。だから私はソロ用に直す時、「愛しきものへ」という題名を付けたんです」 「愛しい…」 可憐は、おまじないでも唱えるようにその言葉を呟く。その瞳で見つめられた兄は、「まあな…」とテレ隠しに少し笑った。 「どうだ、可憐。今からちょっと弾いてみないか?可憐達の演奏を聞いていたら…なんだ…久しぶりに弾いてみたくなってな」 「えっ!?」 もしかして、もしかして、と可憐が心の中で思っていた事が現実になった。兄と、あの曲を弾く。その願いが。 でも…と、ちらりと詩織の方を見る。当初の予定では詩織と連弾するためにレッスンしてきたのだが…。 「私も、是非聞いてみたいです。お願いできますか?可憐さん」 その視線に気付き、にっこりと微笑んで詩織がピアノを弾くように可憐を促した。 「はい、ありがとうございます!!」 可憐はそういうと、兄の手を引っ張ってピアノの椅子に二人並んで腰掛けた。ピアノの鍵盤の蓋を開けて、指でポーンを「ド」の音を出してみる。 「うん、大丈夫」 そのピアノを見た目は少し古ぼけていたが、控え室にあるだけに調律はしっかりと行われているようだった。 「じゃあ、お兄ちゃん」 「ああ、いつでもいいぞ」 パチパチパチパチ…。 どこからとも無く、拍手が沸き起こった。もう、何が起こってるのか良く分からないピアノ部員達だが、ここまで来たら付き合おうというコトの様だ。 可憐は、ずっとこの光景を夢見ていた。兄と、この曲を二人で弾く時のことを。また、少し涙が出てきそうになった。これは嬉しい涙。でも、それを少しこらえて、可憐は最初の一音を出した。それに兄も呼応する。 その旋律はどこまでも優しくその空間を包み込んで行った。それはまるで二人の気持ちが広がっていくように。 「ねぇ」 沙織が、独り言のようにポツリと呟いた。 「家に帰ったらさ…その…久しぶりに…連弾、しない?」 「えっ」 詩織が、小さく驚いて沙織のほうを見る。 「イヤなら…別にいいけど?」 沙織の方を詩織が向いているので、沙織は少しそっぽを向いて言った。 「うん。弾こう。久しぶりだね、沙織と弾くの」 「…うん」 その旋律は、どこまでも流れていくように染み渡って行く。それを感じた人はなんだか少し、その日一日を優しい気持ちで過ごせるような、そんな旋律だった。 PIANO 完 |